神様の暇つぶし (文春文庫)

11件の記録
- ねこ@notoneko252025年5月5日読みたい本リストから。 「事実を言葉にするのはしんどい」 里見が言った。一語一語、自分に確認するように。記憶を反しているようにも見えた。 「言葉にしてしまったら、それを受け入れないといけなくなるんだから。早いも遅いもない。 柏木が口にしたいタイミングでいいんだよ」 「病気や事故って平等だろ。いつか、おれのことを罵った奴らが死にかけて、気持ち悪いおれの血で生きながらえればいい」 ふ、と笑う。目の端で私を見る。 「おれ、しつこいから」 まだ辛いから笑うのだと、やっと気づく。 「なにも求めていません。なにも欲しくありません。勝手に決めつけないでください。私は、ただ、全さんに触りたいんです。確かめたいんです。それだけなのに、どうしてそれが駄目なんですか」 「俺が思う神様っていうのは、かたちはなんでもいいんだよ。そもそも人が認識できるもんじゃないんだからな。水槽の中で飼われている俺が外の世界を認識できないのと同じだ」「じゃあ、全さんにもわからないじゃないですか」 笑うときつく抱きしめられた。苦しむふりをして脚をばたばたさせる。 「いいや、わかることもある。こうして俺の腕の中におまえが存在している不思議を感じるから。おまえにはわかんないだろうな。でもな、神様はいるんだよ。いや、いたんだろうな、どこにでも」 体に温度があるのと同様、きっと心にも温度はある。心の温度は体温とは違う。この世には想像もつかない温度の人がいる。相手を焼きつくすほど高温のこともあれば、誰にも触れられないほど凍てついていることもある。そして、それは関わってみないとわからない。 自分を否定した人たちに復讐するために献血を続ける里見。その整った横顔を思いだし、復讐という言葉は相応しくないように思えた。彼はきっと自分の誇りのためにやっている。悔しさや痛みを忘れないために。 「わたしの気持ちを知っていて、なんで教えてくれなかったの?無駄な時間、使わせないでよ!」 「それは……」とさっきと同じことをくり返そうとして、声が詰まった。 「……無駄なの?」 菜月の顔が遠ざかる。ぼやける。体が軋む。悲しい。悲しみと寂しさでいっぱいで張り裂けそうだ。 「無駄な、時間だったの?」 好きになっても実らなければ、駄目になってしまえば、それはもう無駄な、どこにも繋がらないことなのだろうか。 「柏木、すごくきれいになったよ。それに、なんだか堂々としてる。どういう関係だったかはわからないけど、怒るときに怒っておかないとずっとひきずるよ」 ……怒る?」 里見のビー玉みたいな茶色い目が私を覗き込んでいた。 「捨てられたんだろ。さびしくない?悔しくないの?」言葉を反鍋して、くり返す。 「さびしいし、悔しい」 「うん」 「ひどい。ずるい。つらいよ、つらい」 呑み込んでいた感情が言葉のかたちで口からこぼれていく。薄墨をひくように辺りが暗くなっていく中で、里見の姿だけがぼんやりと白く光って見えた。 ふいにわかった。 私は変わったんじゃない。 変えられたのだと思いたいのだ。傷つけられたのだと。今はもう傷しか残っていないから、何度も何度も自分でかさぶたをはがし、痛みと見えない血が流れるのを感じて、あのひとのつけた傷を確認していたいのだ。 「どんな人の関係も同じです。どんなに深く愛し合っていても、お互い自分の物語の中にいる。 それが完全に重なることはきっとないんです。だから、僕はあなたの話を聞きたかった」 ---------- 人と本には出会いのタイミングがあると思うけれど、今の私が、この本に出会えて良かった、と思った。