死の形而上学
9件の記録
くりーむ@cream2026年9月26日読み終わった本書のテーマは死について、ですが、概ね、「死んだ他者」についての考察が中心になっているといって差し支えないとおもいます。 すなわち、「私が死ぬ」ことについてを考えるという目的を持って読む場合、一見すると肩透かしを食らったような感じがするかもしれません。 テーマがこうなっていることの一つの大きな理由は、本書を読む限り、現代の分析哲学の文脈で、死の悪、が一つの重大テーマとなっていることに帰せられるのだろうとおもいます。一方で、そのような議論によって汲み尽くされなかった部分として、己自身が死ぬということ、が浮かび上がってくるということは指摘しておかなければならないようにおもいます。 本書の結論は、それほど新奇なものではありません。すなわち、死によって、ひとはほんとうに、根本的な意味において「消滅」(これは本書のテクニカルタームの一つです)してしまうのだ、だから、私たちがあれこれと死者について述べるのは、その語りとは裏腹に、一種の錯誤である、たとえば、Aさんは死ぬことで不幸になってしまった、というのは、不幸になってなどいない(幸 / 不幸を論じる土台がそもそも消滅してしまっている)にもかかわらず、そう言いたくなってしまうものだ、ということになります。 しかし一方で、本書の優れた点は、広い意味で死者について語ること、についての既存の議論に注釈を加え、見通しよく整理し分析したうえで、それに対する一種の批判的展開として消滅の概念を持ち出しているところにあるようにみえます。その達成は、一つには、たとえば死の害悪といったテーマに対する鳥瞰図を与えることであり、もう一つは、消滅の概念に出どころとしての基礎付けを与える、というところにあるでしょう。著者らの述べるように、消滅概念は哲学史上散発的に表明されてきたということですが、それらに一定の構造を与えているという意味で、よいものだとおもいます。 最後に、本書の範疇の外側に逃れていってしまった点を2つ、挙げておこうとおもいます: 1. 例えば死の害悪について語ることが一種の錯誤であるとして、その錯誤はどのような性質をもつか。他の錯誤と本質的になんらか異なるだろうか、それともそういったものは見いだせないのだろうか。換言すれば次のようになります、すなわち、「Aさんは死ぬことで不幸になってしまった」と言いたくなるのはなぜか。そう言うことで、何が起きているのか。 2. 私たちは、「消滅」をどのように受け止めればよいか。本書を通じて、消滅概念に伴う、めまいであるとか衝撃であるとか、そういった感覚には言及があったが、「消滅」そのものを考えることはできるか。 また、本書にはいくつか、本書内で定義されたテクニカルタームと呼ぶべきものがあります。 私の、そしてこれから読むひとの便宜のため、これらを以下にまとめておこうとおもいます: ☆ 第一の直観 ... 「死にゆく人にとって死が悪であるのは、死によってその人が存在しなくなるからである。」(p3)という直観 ☆ 第二の直観 ... 「存在しなくなることの恐ろしさは、そのことによって悪くなったということすらありえなくなる点にある。」 (p4) という直観 ☆ 終焉テーゼ ... 「人は死ねば存在しなくなる」 或いは、「死は死にゆく当人の存在の終焉である」 (p14) という理解 ☆ 剥奪説 ... 「死ぬということの悪は、(中略)死ななければ得られていたであろう善が現実の死によって得られなくなるという悪」 (p33) という考え方。 p42 以降、ネーゲルによる剥奪説の体系(すなわち補助的なテーゼたち)の説明がある。 ☆ 生前説 / 死後説 / 無時間説 ... どれも、「死の害悪を被るのはいつであるか」 という問いに対する答えの与え方である。生前説は生きている間、死後説は死んだあとである。無時間説は類似の立場があり混同に注意する必要がある、p54 参照。ここでの無時間説とは、死の悪を世界の性質として理解するやり方のことである。 ☆ ゼロ説 / 無規定説 ... 死後説を採用した場合に、「主体不在の問題にどう答えるか」 という問いに対する答えの与え方である。ゼロ説は、死後の福利はゼロだという考え方である。ここに、ゼロとはニュートラルな、プラスとマイナスの間のゼロである。無規定説は死後の福利は undefined だという考え方。「福利」という語については p117。
はづき@stray_night2026年8月9日読み終わったすっごーーーーーーーくおもしろかった✨ あほだから解釈違いかもしれないけれど、 語らせてください。 一般論で死は剥奪だから悪みたいな感じではじまるのですが、私は生きたいと思ってないので、理解できないのかなと読みはじめましたが、積極的に生を推奨するわけでも死を推奨するわけでもない。 ただただ俯瞰を徹底しているのがよかった。 何点か疑問に思ったことがあるので、ここに残します。 ①愛する人の死、例えばお葬式でみんな泣く。これは愛する人が死という最大の不幸にあったから泣くのであると書いていて果たしてそうなのかなと。 →私は愛する人を失った自分が寂しいだけ、悲しいだけ、可哀想なだけなのかなという感じがする。あくまで自己中心的な涙というか、自己満の涙。もちろん私も大切な人のお葬式で泣いていたけど、それは相手の不幸を思ってっていうものでもではなかったと思う。捻くれてるかな?死は救済っていう価値観も少しあるから、若干あれかな。私が変。 ②死がどれぐらい不幸かは、あくまでそれまでの人生で得てきた幸福が普通の人生にとって十分量であるかという点による。 →大納得すぎるよ〜!!!幸福であればあるほど、死は不幸なんだね。すごく勉強になった。 ③死ねば楽になると言いますが、果たしてそうか?死んだら楽になったことすら、何も感じ取れなくなるよという話。 →それはそうなんだけど、むしろ私はもう何も感じたくない。昨今、特に情報量が多すぎる。感じようとしなくとも、暑い、寒い、冷たい、甘い、眩しいとか、生きてるだけで強制的に何かを感じ取らされてる。そこから更に社会で、SNSで、でんでん疲れる。これも私が変か? ④あくまで常識的に『生まれてこない方がよかった』という主張の"奇妙さ"を〜 →この考え方は奇妙だったのか!と新発見。私は最初から違和感がなかった気がする。例えばドラマか漫画かTwitterとかで『生まれてこなかったらよかった』みたいなセリフをはじめて見たとき、今みたいに希死念慮があるわけではなかったけど、そういう人もいるよねと納得していた。もしくは、当時から言語化していなくても、自分にもそういう気持ちが内在していたからなのか。 ⑤永遠の命が欲しい人なんてほとんどいない。ただ、何歳で死にたいと聞かれると80-100を指す人が多い。何歳で死にたいか?と、その都度なされるもう死にたいか?は別。後者は否定するという話。→昔の物語でもよく不死の薬とか、永遠の命に憧れてる人って多かったと思う。それは、医療も発達していなくて、寿命が短く、健康な体なのに死んでいったからではないか?(病気、戦争、飢餓等で) 健康寿命のような話で、老いぼれた体で生き続けたい人はいない。予想ではあるけど、若い体の身体機能や容姿のままならば生き続けたい人も多いのではないかと思う。 別に生きたいと思わないのでそこらの機微がわからないが。 はぁ〜!!! 答えのないことについて考えるのって楽しい!! パンピーの私にも知恵を授けてくださり、ありがとうございます! 今でも哲学で飯を食うっていうのが凄いなあ、、、憧れるし、尊敬だ。 賢い人の話もっと読みたい、ききたい。



















