演劇入門
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勝村巌@katsumura2026年9月27日読み終わった「演劇入門」平田オリザ著 をよんで。 息子の玄さんは今、高2。中学校の時から演劇部で、結構良い感じでハマってます。親の贔屓目としても、実生活における落ち込みとは反比例して舞台の上では大半な輝きを見せることがあり、部長とかやってがんばっててハナマル。 さて、高校になると総合的な探求の時間というのがあって、一年をかけて課題発見をして、それに対して総合的なリサーチをするという授業がある。 玄さんは僕の息子なので、なんとなく表現についての問題意識が共通で、そこでは表現におけるモダニズム→ポストモダンへの変遷の中で起こったと言われる大きな物語の終焉が、親子間の対話として持たれることが多い。 彼としては総合的な探求では、それをテーマに考えていきたいというのです。 その参考図書として、調べているうちにこの本が出てきた。平田オリザはポストモダンを標榜しているわけではないが、彼の提唱する現代口語演劇、静かな演劇、などのコンセプトは多分にポストモダン的なように見える。 新書で読みやすそうだし、とっかかりの参考文献としては読みやすそうなので購入。 玄さんは演劇の公演などあり、忙しいため、気になって、僕の方が先に実際に読んでみたところ大変に面白く、演劇を通して現代の表現全般について深い洞察を得られた。 およそ表現というものをファインアート的でもデザイン的なものでも実践しておられる方はすべからく読むべし、などと言いたいくらい良かった。 「演劇を通じて人を見る」とはどういうことか、を述べた本である、と前書きにあるが、ここには、現代の日本における、という注がつくと思った。 この本では日本で西洋的な近代以降の価値観による演劇を立ち上げるためには何を考えると良いか、を具体例を挙げて構造的に分かりやすくブレイクダウンしてる。 我々は明治以降の西洋化、近代化を経て今のような社会を築いている。その中で人間同士の関係を新たに捉える足掛かりとして演劇は大変有効である、という強い信念に基づいて論じられていて、これは大変に頭脳明晰だ。 平田オリザという強力な実践者による、経験を通した意見の表明となっていて、時には極論的にも響くが、ある視点からするとそれは強い説得力があり、誠実な内容と感じている。 こうやって劇作家として俳優を説得して強い意志で持って作品を作ってきた人なんでしょう。そういう執筆の態度も良かった。 さて、この本で述べられていることは説明を聞くといちいち尤もだ、とうなづける内容ばかりだが、最初は驚かされるものも多い。 まず冒頭付近で驚かされたのは、演劇を作り始める時にテーマを持つ必要はない、というメッセージ。最初から、なんについて書こうか、などと考えてはいけない、というわけだ。これは結構刺激的。 テーマではなく、対話の生まれやすい状況設定が第一である、とのこと。 平田オリザによると演劇の脚本とも言える戯曲は台詞のみで書かれるもの。つまり、人のお喋りのみで表現が成立させる必要があり、そこでは下手をすると、過分に説明的になったり、大変な違和感が生じる可能性がある。 それを避けるためには、まず、会話と対話を明確に区別しなければいけない、としている。 その区分は大雑把にいうと、会話はある程度お互いの文脈を共有しているもの同士のおしゃべりで、対話は知らないもの同士による情報交換である、とのこと。 会話ではお互いの文脈を共有しているので、そこは省略されるため、会話だけが続くいても、観客には舞台の状況設定が見えない、というのだ。 例としては家庭の中の会話をいくら重ねても、親子でも、親の職業の情報を今更、話すことはないし、息子が何年生か、などということはお互いのしゃべくりからは見えてこない。 そこに他者、例えば遠くに住んでいるおじいちゃんが入ってくると、セリフは社会性を帯び対話となってくる。おじいちゃんなら「最近の仕事はどうだ」とか「お前は一体何年生になったのか?」などと尋ねることが自然で、状況が見えるようになる。 小説では、説明のための地の文があるので、それはキャラクターの設定として地の文で説明可能。ただを戯曲には説明のための地の文はない。設定などをいち早く観客に察知してもらうためには会話と対話はしっかりと区分しなくてはいけないというのである。 演劇を見る上で、このことは大変に参考になる。 なんか説明台詞っぽいなぁ、というような時は会話的な関係性なのに改めて対話的内容を口にしているとそう見えてくるのだ。 ここで、平田オリザは西洋というのは多くの国が他国と隣接しており、征服したり征服されたりしてきたので、言語自体がより対話的である、と自論を述べる。 つまり西洋の演劇はもともと対話的な言語により表されてきたものなのだ、という。 翻って日本語は長い国風文化や鎖国などを経た大変に内向的でお互いの文脈を察することに長けた言語である。主語ですら省略できるというのはそういうことなのかも。 現代の演劇は新劇つまり西洋からの輸入された文化が日本においてガラパゴス化したものなので、もともと対話が苦手な言葉で対話的なスタイルをとらざるを得ず、それが一つのジレンマとなっている、という問題意識なようだ。 これは大変に面白い。不自然な対話的な会話を誤魔化すために、大きな物語(つまりテーマ)などを劇的に組み込んできた歴史、というのがあるのだろうか。 劇的なドラマ、政治的社会的テーマ、名台詞などは、平田オリザにとっては少し大袈裟で紛らわしいものに感じられているようだ。それが、平田オリザの標榜する静かな演劇、というものに結びついているようだ。 さて、ここで考えたいことは、テーマは後回しにしている、ということである。平田オリザはテーマがあってはならない、ということは言っておらず、最初は劇が展開させやすい状況設定をしっかり作り込め、と言っている点である。 これは会話と対話に意識的になると、状況設定をしっかりしないと、一方は会話のみで主語の省略された情報のない台詞のみとなり、他方では対話ばかりとなり、会話が生まれない情報交換ばかりの会議みたいな舞台となってしまう。 そのためにはセミパブリックなスペースで状況を設定すべし、となる。お葬式の待合室とか、大学の研究室、みたいなところが平田オリザの過去の戯曲の舞台となっている。 舞台を設定して、そこに登場する会話や対話が発生できそうな登場人物が配置されると、その状況で起こりうる、しかし、ある程度観客の興味をそそるエピソードを持ち込むことができたら、おおまかな人の出入りのプロットを立て、脚本を書き始めよう、という。 そして、そこで初めてテーマについてぼんやり考えると良い、というのである。そこでも、決め込んで書くのではない。書きながら考える、という態度が大切だ、ともいう。 ここがいい! と思った。なるほど。テーマは書きながら考えるで良いのか。状況が設定されたら、そこにはすでに劇作家の主観が反映されているのだから、自分を信じてドラマを作っていくと、対話や会話の中に自分の問題意識が入り込んでいく、ということか。 大きなテーマや、あらかじめのゴールを設定して、そこに向かっていくのではなく、自己の主体性を反映させることで、自分なりのテーマは生まれてくる、という考え方は大きな物語の終焉ともつながるテーマである。 物語と自分の関係性というものを突き詰めていく、という表現方法は僕が村上春樹なんかを読んでいて、感じていることに近い。 他方、平野啓一郎などはゴールが見えてからそこに向かって書いていく、と言っていた。彼はモダニズムの三島由紀夫や大江健三郎らに強い影響を受け、ポストモダンを超越することを目指しているので、また異なる表現の方法論を持っているのだろう。 つまりは、物語と自分との関係性を構築することが戯曲の成立と重なる、というのである。 そして、次はここに役者の存在が入ってくる。戯曲のセリフは役者が喋るものなので、その役者の文脈がそこでセリフとマッチングが取れるかどうかが、舞台におけるリアルを表現できるかに関わってくるというのだ。 平田オリザはそこにコンテクスト(文脈)という言葉を用いているが、つまり、劇作家の作ったセリフがその役者のコンテクストに沿っている、もしくは広いコンテクストを持っている役者であれば、そのコンテクストの中に収まるというのが大切だ、ということである。 これは演技の上手い下手に関わる面白い視点で大変に興味深かった。またコンテクストの差異というのはつまるところ関係性のことなのだと思う。 夫婦喧嘩を例に取って説明していたが、それがすごく分かりやすかった。ちゃぶ台がテーブルか判然としない四つ足の机について、これをちゃぶ台と捉える夫とテーブルと捉える妻の間ではコンテクストが共有されていないので、諍いが起きるというのだ。 わかる〜。そんなんばっかです。 また、現役の女子高生と舞台を作った時に「これからマクドナルドに行く」というセリフがどうしても自然に響かなかった。なぜかというと彼女たちはマクドナルドをマクドナルドと言わないのだ、セリフをマックに変えるとコンテクストが共有できたのだ、という。彼女らはプロではないので、コンテクストを広げる技能や訓練を積んでいないため、そういうことが起こったのだとか。 このコンテクストを広く共有できる役者は戯曲と自分の距離を縮めていける役者なのだろう。 そういや玄さんも、この前の公演で1人の人間の若い頃と老人になってたかをちゃんと演じ分けていたけど、それはコンテクストを意識的に使い分けてたからなのかも。演劇の見方も広がった。 劇作家はこのようにして、役者と自分とのコンテクストの差を実感しながら世界の見方を広げていく。自分のコンテクストにこだわる場合もあれば、コンテクストの違いを受け入れ変えていくこともあるだろう。 そして、次なる段階として、戯曲と役者が一体となったコンテクストを観客と共有するという事象が生じるというのだ。 これはつまり作品と観客との対話であり、お互いがそういうリテラシーを持って作劇や、観劇をすることで、新たな価値観が社会に溢れていく、ということにつながるだろう、と平田オリザは語っている。 つまりはあらゆる他者や自分自身との対話をコンテクストから捉え直し、関係性を構築する能力を養うことができる、それが演劇というアートフォームの持つ社会性であり、個人の豊かな生活に帰するところとなる、ということなのだろうか。 アートの存在意義などを常日頃考えているが、関係性、コンテクスト、文脈というのはそこに大変に具体的な意義づけをしてくれる言葉だった。 演劇だけではなく、表現に携わる多くの人に読んでほしい一冊です。
グミチャン@gumicyan2026年9月9日読み終わった借りてきた「演劇が観客の側にも参加するものとして捉えられる状況は、ある種の市民社会(P.197)」においてであると言えるかもしれない。そうでなければプロパガンダや単純な娯楽の道具として存在する…と書かれている部分。 私はわりと参加する趣味があるので実感が持てた。熱狂に飲み込まれないようにするのは大事。でもここに書かれてるほど単純な世の中ではないよなーという気もする。推し活的なファンダムって参加させるプロパガンダみたいだし。AIでデザイナー・イラストレーターの役割を代替することを芸術活動への参加みたいに捉えてる人もいるけど、本当かなぁ、とか。あとAIでいえば、身体のコンテキストが伴わないっていうのはあるかもなー、とか。

ポセイドンが飼ってる犬@big82842025年11月3日読み終わった「知的生活の方法」でも同じようなことが書かれていたけれどやっぱり著名な作家や演劇家というのは死ぬほど取材をして情報を溜めたりしているんだな。ゴカムの作者さんを思い出すぜ。


















