心理学と錬金術 1 新装版

心理学と錬金術 1 新装版
心理学と錬金術 1 新装版
C.G.ユング
池田紘一
鎌田道生
人文書院
2017年11月1日
6件の記録
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年8月15日
    しかしこのような変身ないし変容が成就するには、「周回 circumambulatio」、すなわち 創造的変容の場である中心への徹底的集中が不可欠である。そしてこの「周回」の際に動物に「噛まれる」わけであるが、これは無意識の動物的本能に対して、それと同一化することもそれから「逃げ出す」こともせずに身を曝さなくてはならないということを意味している。逃げれば、「噛まれる」儀式の意味は失われ、元も子もなくなる。 (p.196) 周回する、ということは中心の存在、その力、そのエネルギーを信じているということ。 カーバ神殿の周回、車輪の回転(荘子)、地球の自転と公転(太陽と季節の巡り)、立憲君主制。 “We are such stuff as dreams are made on; and our little life is rounded with a sleep.” (『テンペスト』シェイクスピア) この台詞における「 rounded 」の意味。「sleep(眠り)」とは、無意識の別名。 中心は、突き詰めれば点であり無である。 周回の際にあらわれる「動物」とは、周回運動を行うものの視点から捉えた「混沌」、「無秩序」の象徴。 「噛まれる」ことが儀式の一様式となるためには、信念が必要となる。その「痛み」もまた点であるが、これは周回軌道の線上に存在する点であり、微分すれば逃走線のベクトルとなる。ベルトルは新たな重力、その中心点を求め、無重力地帯を彷徨う。 周回は物語を創造し、逃走は変身譚を展開する。 周回するにせよ、逃走するにせよ、大事なのはその中心点を見極める、意識しているということ。 「振り回されている」、そして「噛まれる」、それを肯定的に捉えること。「噛まれる」ことにより、絶えず「眠り」を妨げること。 そして「動物」たちの瞳の奥を、「無秩序」の奥にある中心を覗き込むこと。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年8月15日
    錆がついて初めて貨幣にも本当の価値が出てくるというタレスの逆説的注釈は一種の錬金術的パラフレーズであって、その言わんとするところは結局のところ、影なくしては光は存在しない、不完全さなくしては心の全体性は存在しないということ以外の何ものでもない。生の完成のために必要なのは、終結的完全(Vollkommenheit)ではなく、持続的完全(Vollstandigkeit)なのである。そこには「苦の種」が、欠陥の悩みがなくてはならない。それなくしては前進も上昇もありえないからである。 (p.215) 「持続的完全」とはジンテーゼ(synthese)、テーゼとアンチテーゼの揺り籠、その揺れに酔いを催すのではなく、快楽を覚えること。 「苦の種」を糧に、ニーチェの「陶酔」に近づくこと。  測り(秤)の上で踊る命の絵  灰のリングに何が善 扉開けた気がしてる  ここが俺の墓場  確かめてるヒマもないねHollaback  (『Synthese freestyle』 JJJ) 「墓場」こそがジンテーゼ、「踊る命の絵」の舞台であり、JJJにとって、それが「音楽」であったということ。そこに赴けばいつでも彼の音楽が流れている。 彼の音楽を輝かせているのが「苦の種」であり、その事実が彼の音楽を聴く者の心をいろんな意味で「揺さぶる」。  左手流れる 千の言葉雨がふる  今あふれて止まらない  今あふれて止まらない  絶えず声は終わらない  今あふれて止まらない  今あふれて止まらない  (同上) これが『MAKTUB』(それは(神によって)書かれている)のはじまりの楽曲。 よりによって、Hollabackで締め括られる歌詞。 墓碑銘は「墓場から揺籠まで」。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年8月11日
    環境中の諸客体に対する正常な関係は一定量のエネルギーの消費によって維持されている。しかし客体に対する関係が断ち切られると、エネルギーの「停滞」が起り、停滞したエネルギーはそのエネルギー量に見合う代償像を生み出すのである。たとえば人間関係が不信によって損われると迫害妄想(被害妄想)が生じるように、環境の正常な活性状態が失われた代償として幻覚の現実が生じ、人間の代りに恐ろしい幽霊のような幻影が徘徊することになる。 (『個体化過程の夢象徴』) ポピュリズムとは、停滞したエネルギーの回収とベクトルの提供により始まる。 ベクトルの提供、それは「外部」の創造から始まる。停滞したエネルギーは出口を欲する。それがIDを求めないフリーパスな出口ならばなおさら好都合。その出口が狭ければ狭いほど、エネルギーのかたちは先鋭化する。 自分なりのエネルギーの整流装置、そして爆発を回避するためのオーバーフロー装置が必要であるとあらためて感じる。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年8月2日
    こうして結局最高の哲学的価値は「賢者の石」のものとなった。というのも変化したものより変化させるものの方が高く見られたからであって、変化させるというのは他ならぬ「奇蹟の石」の魔術的性質の一つを示すものであった。 (『個体化過程の夢象徴』 16 夢) 象徴は「もの」に付与される。 概念を感じられるように、それに容姿を与えること。それが象徴化であるとするなら、象徴化されてしまった概念は、おのずとその意味を存在として託した「もの」の属性もまた、無意識のうちに背負うことになるのではないかと思う。 石は磨くことができる。 小さければ投げることができる。 大きければ座ることもできる。 変化するものは液体でなければならないが、 変化させるものは恒常性と座標が必要となる。 ゆえに「石」というものに「哲学的価値」という象徴が託されることになった。 哲学書は石である。 それは、磨くことも、投げることも、座ることもできる。 しかしそれらは混ざらない。 各々が、ライプニッツの言うところの「窓のないモナド」。 「石」の骨学的意義に関しては、ヘルメスの言とされている次の部分が特に参考になる。「賢者の息子らよ、比類なく価値高きこの石の語るところをしかと弁えよ、〈……わが光はなべての光に勝り、わが価値はなべての価値をよせつけず……光われを生むなり、しかれども闇またわが本性より出来るなり……〉」(『哲学者の薔薇園』二三九頁)。 「石」になれば、その存在を誇る(光らせる)ことができる。しかしその代償として「影」を背負うことになる。 哲学書とは、自らを変化させることができなければ、ただの石に過ぎない。むしろ知らないうちに知性の「影」の側面を存分に背負うことになる。 ユングの語る無意識とは、この「影との闘い」である……という教えは、河合隼雄さんの本の方がわかりやすく書いてある。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年7月24日
    わけても背理は、極めて貴重な精神的財産の一つである。これに反して一義性は、弱さのしるしである。従ってもし宗教が、その背理性を失ったり弱めたりするようなことがあれば、それは内面的に貧困化し、背理性が強められる場合にはそれは豊かになる。というのも充益せる生をおおよそなりとも捉えうるのはひとり背理のみであって、一義的な明白さとか矛盾の無さとかいうものは物事の一面にしか通用せず、従って把握し難いものを表現するには不向きだからである。 (p.30-31) 世の中の背理に対し、受け入れる(引き受ける)姿勢があればこそ、宗教の背理性から力を授かれる。 背理には厚みがあるけど合理はペラ一枚。 背理は襞があり合理は剥き出し 背理は宗教に限らず、哲学、形而上学その他の学問を豊かにする。 合理は学問を浅くする。非線形をリニアに、無形をスクエアにしてしまう。 近代の合理主義が精神を蝕むことになったのであれば、ユングのようなすごい心理学者が現れること自体がある意味で人類史上の不幸とも幸運とも言える。これもまた背理。 「一義性は、弱さのしるしである。」 政治的には一義性こそが強さのしるし。 一義性=悪というリニアな解釈もまた合理的判断と言える。一義性こそが必要となるシーンは、生きていれば当たり前に出てくる。 政治的意志と人間的精神、 弱さは強さであり、強さは弱さであるということ。 シェイクスピアの悲劇こそがユング心理学のA面とも言える。 「汚いはきれい。きれいは汚い」(『マクベス』)
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年7月12日
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