増補 アルコホリズムの社会学
9件の記録
r@teihakutou2025年6月1日気になる今日は、父の誕生日祝いのために、久しぶりに家族で食事に行った。お店で現地集合としていたのに、主役の父が10分待っても現れず連絡もつかず、しびれを切らした母が家まで迎えに行くと、父は酔っ払って寝ていて、30分遅れてやっと全員揃った。ふらふらやって来た父は、ほとんど寝ながら、汚い食べ方でこぼしながら食べて、時々大きな声で意味不明なことを言い、店員さんも苦笑いしながら見てた。コースの途中で、「もう終わり?帰る」と言い出し、「まだだけど帰りたいなら帰れば」とか返して、結局デザートまで食べたけど、食べ終えて父は一人で先に帰った。早く寝たかったのだろう。隣の席にいた家族の様子を見ていた母は「あんな和やかな家族もいるんだね、うらやましいわ」とぼやいた。 父に関しては、もうどうとでもなれ、と思う一方で、今からでも遅くないのならなんとか医療機関に繋げられないか、と思うようにもなってきた。なんであんな人のせいでわたしら家族がこんなに嫌な思いをしたり、思い悩んだりしなきゃいけないんだと思いもするけど、とりあえず、わたしは本を読んで学んで強くなりたい… でもそう思えるようになっただけでもかなりの成長…


socotsu@shelf_soya2025年5月29日まだ読んでる第9章の、共依存とは「役割をみずから選択し実践し責任を引き受けることからの逃避」のために「欲求を定義してくれる人」を欲することで、近代社会に特有の現象でもある、という箇所で、エドワード・ヤンの映画『カップルズ』での、みんな指図されたがっている、という台詞を思い出した。 "自分で自分の欲求をモニターするのではなく、それを定義してくれる他者をみつけて、その相手との閉じた世界のなかで、自己のアイデンティティを維持する戦略と言い換えることもできよう。定義してくれる他者は、配偶者であってもいいし、子どもであってもいい。あるいは、会社や国家であってもいいというように概念を広げることができる。" p.182

socotsu@shelf_soya2025年5月29日読み終わった「コントロール可能な自己」という現代社会の価値観がアルコホリズム(ものへのアディクション)や共依存(ひとへのアディクション)の根幹にあり、回復には自己のコントロール不可能性を認めるしかない、しかし回復後に復帰する社会もまた共依存的であるのならば、という考察が非常に興味深い。「推し活」と呼ばれるような行為に熱中する人が多く見られる現代において、その行為もまたひとやものへのアディクションのひとつのあり方ではとここ数年考えていたけれど、その考えを深めるためのヒントになるような書籍でもあった。 また「コントロール可能な自己」を放棄する、「自己というフィクション」を認めるのであれば、確かに論理的に説明可能なものだけに重きを置くような考え方の外に出る必要があり、それにはスピリチュアルが必要である、という考え方は納得がいくものではある。

ザムザ@zamzy7332025年3月9日読み終わった@ 自宅アルコホリズムが近代合理性という、いつのまにか自己の自明な前提として作動していたものの論理的必然として説明される。 ギデンズ言う再帰性こそがその正体で、そこでの自己は尽きない欲望としての利己に憑かれており、満たそうとし満たされはせぬ泥沼の自己を演ずる。 不足しているのは神なるもの、スピリチュアリティ、あるいはコントロールを手放して大いなるものに導かれる感覚を感じ、信じること。ベイトソンからカーツの線がそれだ。 アルコホリズムを掘り下げるとなかなかに深いところに触れられるもんだね。教わった。 個人的に著者が前提にしている社会構成的なるものは、哲学の線から別様に眺めることはできぬものかと腕組みさせられたっけ。現象学あたりの目線では、どうやろか?
