存在と苦悩

13件の記録
だむ@p0se1-d0n2026年9月15日(つづき) 言い換えればまず「文は人なり。」 ということがある。 そして彼の「土俵」を論じる文章の 「文学度」が読み手をして 「生」を「人生」に 「世界」を「この世」に 無意識混じりにでも読み替えることを 許容する。 そしてこのことがショーペンハウアー に「人生の伴走者」のようなイメージを 付与するとともに彼の著作に「哲学 の仮面を被った人生論」のような趣を 与えてしまう怖れがないとは言えない。 その結果彼の哲学がより多くのキリスト 教圏の人々によって「非・合理」「非・ 論理」「厭世的」のラベリングを施され てしまうのではないだろうか。 言うまでもなく彼らが引き付けられたの は精密に体系化されたヘーゲル哲学だ。 ご承知のとおりヘーゲルとショーペン ハウアーは同時代の人で同じ大学に勤務 していたこともある。 本書においてもヘーゲルを罵倒している 個所があるが、ショーペンハウアーは わざわざ彼と同時刻に講義を行った そうだ。そしてヘーゲルの教室は満員 御礼で熱気に溢れていたのに対し彼の教 室は閑古鳥がないていたという。 ショーペンハウアーと並走しようとする 人は少なかった。 ただショーペンハウアー風に言うなら 読み手ひとりひとりの表象の中に自分の 哲学が存在していることは先刻承知して いたはずだから不平を言う謂れはない だろう。 伝えられるところによれば ヘーゲルは今わの際に「誰も私のことを 理解してくれなかった。」と述べたとい う(事実ではない、という説もある。)。 果たしてショーペンハウアーにとっては どうだったか。 思うに哲学者は二通りだ。 生まれつき不幸なもの か 最後に不幸に気づくもの である。 ショーペンハウアーは「宿命」として 哲学者であったと思う(文学者ではあり 得なかった)。 彼からは「無意味」と言われそうだが 私としてはそれでもこう言いたい。 「哲学者に幸あれ!」 ※私が読んだのは旧版です。
だむ@p0se1-d0n2026年9月14日読み終わった「存在と苦悩」。 これだけでおなか一杯になりそうだ。 本書はショウペンハウアーの主著「意思 と表象としての世界」をはじめいくつか の彼の著作から文章を抜粋し一冊に編ん だ抄本だ。 おそらく出発点は「この世界は私に映っ た表象だ。」ということ。 そこらから死や宗教や芸術等個別のテー マを論じていく(というかダイジェスト だからそのように編集されているわけで。 以下それが前提となる)。 少なくともそうしたテーマは彼が把握し た生や世界を描き出すための「観念的 土俵」ではあるはずだが、読んでいる こちらにしてみると、むしろ彼の横顔 が、人となりがしきりにちらついて くるような気がする。 カントやヘーゲルに比べてショーペン ハウアーの評価は総じて低い位置に 置かれているように思われるけど、こ のことが彼の低評価に微妙に関係するの ではないかというのが私の感想。 安易な言い方だけど彼の「観念的土俵」 を論ずる文章は文学的だ。 トーマス・マンは述べている。 「(ショーペンハウアーがこの生の苦し みを説くとき)彼の文章上の天才が、最 も輝かしく、しかも最も冷厳な完成の 頂点に達した」(訳者あとがきより)。 彼の文章には傾きがある。「死」につい て語るときには「自殺」に、「宗教」に ついて語るときには「禁欲」に、そして 「芸術」について語るときには「なぐさ め」にそれぞれ「寄せて」書いている。 総じて「土俵」であったものがエッセイ 風に語られて主題と化しているような 趣がある。 これは抄本という本書の性格によるとこ ろが大きいけれど、自殺・禁欲・なぐさ めを言い換えれば、否定・我慢・埋め合 わせに他ならない。とどのつまりは 「生」それ自身が苦しいのだ。 (そしてこのとき実は次元が変質してい る。―後出) トーマス・マンやワーグナーが彼を 崇拝したのも「さもありなん」という 気がする。 そして「哲学書」を手にとろうとする ような近現代日本の生活者一般にとって、 ここは受け入れ易いところだったろう。 (つづく)







