太陽と鉄・私の遍歴時代
6件の記録
くりーむ@cream2026年8月16日まだ読んでる《2つの肉体》つづき よく読んでいくと、前回の2つの肉体の理解は、普通に順当な読解に回収されるように見えてきました。 私の読む限り、このテクストの第一のブロックは、p14「そして現実と肉体に対する飢渇をますます強めた。」という一文でおわる段落までなので、ここまで考えたいとおもいます。 前回の観察に加えて注目しなくてはならない言葉は「言葉の純粋性」(p11) であるようにおもわれます。その意味内容は、「ポジティヴな腐蝕作用のみ」を働かせ、「ネガティヴな腐蝕作用を免かれる」(p11)というものです。そして、この、言葉の純粋性を保つために取られる方策というのが、「言葉によって現実に出会うことをできるだけ避ける」(p11)であり、言い換えれば「ポジティヴな腐蝕作用の触覚のみをうごかして、その腐蝕すべき対象にばったり出会わないように避けて歩くに限る」(p11)という方法です。 なぜ、現実を避けなければならないか、もっと正確に、現実を避けなければいけないと"思われたか"といえば、それは「言葉の微妙で潔癖な法則が予感されて」(p11)いたからということになります。この潔癖性については明言されないものの、普通に考えれば、"触れるものすべてをポジティヴ/ネガティヴの区別なく腐蝕してしまう"という性質だということになるでしょう。 してみると、先程の引用「ポジティヴな腐蝕作用の触角のみをうごかして」というのは不可能なことをいっているようにおもわれます。言葉は云わば"無差別に"腐蝕するので、ポジティヴな部分のみ動かすというのは土台無理な話です。しかし、私が読む限り、第一ブロックの核心は、まさにこの不可能性にあるようにおもわれます。以下このことを確認します。 続いてテクストは"私が、実際に訪れた現実 = 肉体を、現実 = 肉体として認めなかった"、つまり、言葉に蝕まれたものだったと断じた理由の説明に移ります。その理由とは端的に言うと「私の肉体の観念にはじめから或る美しい誤解が潜んでいたから」(p12)というものです。ここで、すでに観念の語が用いられていますが、これは、個々までで用いられていた言葉 = 観念よりもメタの概念を指し示しているようにみえます(が、そのために観念という語を使わなければならなかったことは、考察に値するかもしれません。)。 この誤解の意味内容を探すと、それは、"(男の)肉体が「存在」として現れるだろう"という考えのことだとわかります。三島によれば実際には、「存在することを拒否するところの存在形態」をもっているのであって、それは三島自身にも訪れ、後々、"あらゆる男という男にとってそのように現れるのだとわかった"ということです。 ともあれここで、前回導入した2つの肉体、A = 言葉に蝕まれた・言葉のサブカテゴリーとしての肉体と、B = 言葉の全く関与しない領域にある肉体 = 現実は、ある種の転倒を見せることになります。すなわち、Aは、実際には、現に訪れた肉体にほかならず、Bは、Aへの戸惑いから、三島が構築したものだ、ということです:「誤解から生まれたものながら、このような狼狽と恐怖が、他に「あるべき肉体」「あるべき現実」を仮構する」(p13)。 結果として構成されたあるべき肉体とは、「造形美と無言」を特徴とするものでした。 それだけではなく、三島は「言葉の腐蝕作用が同時に造形的作用を営むものであるなら、その造形の規範は、このような「あるべき肉体」の造形美に他ならず、言葉の芸術の理想はこのような造形美の模作に尽き、つまり、絶対に腐蝕されないような現実の探究にあると考えた」ということです。明言されているわけではありませんが、これは、肉体に対する誤解と対をなす、"言葉に対する誤解"であろうとおもわれます。 こうして、「言葉からその本質的な作用を除去し、現実からはその本質的な特徴を抹殺しようとする企て」という「一つの明らかな自己矛盾」(p14)にいたります。 先程の、「ポジティヴな腐蝕作用の触角のみをうごかす」ことの不可能性はまさにこの自己矛盾を予告するものであったといえるでしょう。 してみると、2つの肉体という枠組みはあまり有効なものではなかったように、一見するとおもわれます。 しかし、もとの B = 言葉の全く関与しない領域にある肉体 と、B' = 仮構された・言葉製の肉体が同じなのかどうかは、注意しなければならないポイントです。 B は、"言葉の純粋性"を求める運動のシンプルな裏側と理解できます。一方で、B'は、否定性として描かれた肉体の具体的な意味内容であるわけですから、これらは、一致しないこともありえます。そして、現に、一致していないはずです。つまり、言葉の関与しない領域と、その積極的内容の間にズレが生じています。想像するに、このズレは太陽と鉄全体を通じて、反復されるようにおもっています。(ひょっとすれば、頓挫するかもしれませんが。)
くりーむ@cream2026年8月11日読み終わったまだ読んでる《2つの肉体について》 ずっと昔に手に取ってみて、意味がわからなかったので読んでいませんでした。 チャレンジしてみようとおもって開いて、とりあえず最後まで耐えて目を通した、という感じです。 とりあえず、最初の5ページ分だけ考えてみます。 いきなり第2段落からこんな調子です:「私が「私」というとき、それは厳密に私に帰属するような「私」ではなく、私から発せられた言葉のすべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したり還流したりすることのない残滓があって、それをこそ、私は「私」と呼ぶであろう。」(p.8) 帰属したり還流したりすることのない残滓が「私」である、これはなかなか難解な表現です。 引用文をみてみると、まず還流しているのは言葉ですから、還流しない残滓というのは non-trivial な状況下では言葉という概念のサブカテゴリーだということになります。残滓という表現にも注意しておきます。それは、滓なのであって、使用によって残ったもの・もはや元通りではなくなってしまったものにほかなりません。 さて、次のように続きます: 「そのような「私」とは何かと考えるうちに、私はその「私」が、実に私の占める肉体の領域に、ぴったり符合していることを認めざるをえなかった。私は「肉体」の言葉を探していたのである。」(p.8-p.9) 先ほど確認したように、「私」というのは、帰属せず還流しない、なんらかの滓として残った言葉のことであり、その別名が肉体だ、ということです。このことは、非常に有名な次の一節において、よく説明されています: 「私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつねの人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気の進まぬ様子で、その時既に観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は言うまでもなく、既に言葉に蝕まれていた。」(p.9-p.10) 三島がここで肉体と呼ぶものは、「観念的な姿をしていたところの肉体」なのであって、すでに言葉の領域のなかにあります。その肉体の姿というのは、「言葉が現実を蝕むその腐蝕作用」の結果であり、言葉の持つ本性に接続しているということができます。 腐蝕作用という言葉が何を意味しているのかは、この段階では判然としません。しかし、言葉の腐食作用は、銅に対する硝酸の腐蝕作用とは異なるものであるということは説明されます: 「言葉は現実を抽象化してわれわれの悟性へつなぐ媒体であるから、それによる現実の腐蝕作用は、必然的に、言葉自体をも腐蝕してゆく危険を内包している。むしろそれは、過剰な胃液が、胃自体を消化し腐蝕してゆく作用に譬えたほうが、適切かとも思われる。」(p.10) 論理的には若干の飛躍を含んでいますが、しかし、理解できない話ではありません。三島によれば、言葉は、現実と私たちの悟性の間を媒介する、つまり、二者の間に存するものです。しかし言葉はその一端、現実の側を腐蝕してしまう。すると、言葉は自らの住処を形成していた二者のうちの一方を破壊してしまうことになる。言葉はこのとき、自らの安住の地を破壊し、不安定になってしまう。そのように考えれば筋は通ります。このとき、腐蝕された・観念的な姿をしていたところの肉体とは、まさに、言葉それ自体を腐蝕してしまう可能性そのものです。したがってここには肉体と言葉の第一の対立があるのだと理解することができます。 一方で、本作にはもう一つの肉体が登場することにも注意しなくてはいけません。それは、2つ先の段落、「私の相反する傾向」のうちの一方に登場します:「一つは、なんとか言葉の全く関与しない領域で現実に出会おうという欲求であった。」(p.11) 言葉の全く関与しない領域で出会う現実。三島において、この意味での現実もまた、肉体の語に結びつけられることになります:「私は言葉の全く関与しない領域にのみ、現実および肉体の存在を公然とみとめ、かくて現実と肉体は私にとってシノニムになり、一種のフェティッシュな興味の対象となった。」(p.11-p.12) ここに、肉体と言葉の第二の対立があるのだと言わねばなりません。 以上をまとめてみると、『太陽と鉄』においては、実のところ、2つの肉体が登場することになります。ひとつは、すでに言葉の内部に入り込んでしまった(或いは腐蝕されてしまった)肉体であり、もうひとつは、言葉の全く関与しない領域に損する肉体です。 これらの区別がいったいこのあとどのように展開されていくのか、注意しながら再び読もうとおもいます。
読書猫@bookcat2026年2月14日読み終わった(本文抜粋) "つらつら自分の幼時を思いめぐらすと、私にとっては、言葉の記憶は肉体の記憶よりもはるかに遠くまで遡る。世のつね人にとっては、肉体が先に訪れ、それから言葉が訪れるのであろうに、私にとっては、まず言葉が訪れて、ずっとあとから、甚だ気が進まぬ様子で、そのときすでに観念的な姿をしていたところの肉体が訪れたが、その肉体は云うまでもなく、すでに言葉に蝕まれていた。" "想像力という言葉によって、いかに多くの怠け者の真実が容認されてきたことであろうか。肉体をそのままにして、魂が無限に真実に近づこうと逸脱する不健全な傾向を、想像力という言葉が、いかに美化してきたことであろうか。他人の肉体の痛みをわが痛みの如く感ずるという、想像力の感傷的側面のおかげで、人はいかに自分の肉体の痛みを避けてきたことであろうか。" "言葉は言われたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によって、生の連続感の一刻一刻の断絶によって、言葉は何ほどかの力を獲得する。" "せっせと短編小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きていても仕様がない気がしていた。ひどい無力感を私がとらえていた。深い憂鬱と、すばらしい昂揚感とが、不安定に交代し、一日のうちに世界で一等幸福な人間になったり、一等不幸な人間になったりした。" "ある意味では小説家というものは、やっぱりネガティブなほうがよいんです。自分がポジティブになると、やりづらくてしようがないですね。だれでもそうじゃないでしょうか。"



