はじまり

9件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年4月4日読み終わった物事がまずはじめにやって来て、 わたしたちはいつも遅れる。 思考は出会いからはじまるとしても、それは 時に何物かに捉えられる経験でもある。 …… はじまりとは、現実がわたしたちに 切り傷を負わせ、挑発し、 わたしたちを動揺させるとき、思考が 「不法侵入によって、世界の偶然から生まれ出る」 まさにその瞬間のこと。 わたしの注意を否応なく集中させるものとの 偶然の出会いこそ、「思考するという受難」の 根源にあるものだ。 (『はじまりでありたいという欲望』) 「思考するという受難」、 身を引き裂くような「受難」から、 「愛」というメタファーを送り出す宗教、 まれに哲学。これこそが「思考」、 ていう至宝? 安っぽさと崇高は紙一重。 神は”いい加減”に二物を与え給う? 「”いい加減”にして」、これは 祈りであり叫び。 質の悪い相槌、その語尾は 「デス(death)ネ」。 評価は常に手のうちの「他者」、 もどかしさに先立ってしまう物悲しさ。 「受難」とは、文字通り 「難」をその身に受け取ること。 "私たちが何者であるのかは、神に唯一無二的な 仕方で愛されることによって啓示される。 私たちが何者であるかは、「呼びかけ」に対して 「はいここにいます」と応答し得ることによって 定まる。 この「呼びかけ」には前段がない、文脈がない、 構造がない、体系がない。 それは単独者に向けて、唯一無二的に、 無文脈的に到来する。" (『レヴィナスの時間論』 内田 樹 p.378) 「受難」とは「呼びかけ」でもある。 その呼びかけを、正確に受信するために ノイズのない場所を求め彷徨う。 自身の観念、その狭い記号体系の「外に出る」 ためにはじめる、それが思考。 「なぜ?」ではなくて、「(わたしは)誰?」。 ”人間は事後的に律法を選んだのである。 始めにあったのは暴力である。” (『タルムード四講和』 レヴィナス p.82) 「不法侵入」、その暴力に 真正面から、思考で挑む。 それが「呼びかけ」であると信じる、 それが信仰であり、思考の結論が律法、 であると信じる、そんな「わたしたちは いつも遅れる」。 わたしたちが生まれる前からある律法。 愛と暴力、ムチ(無知)にもアメ(慈雨)、 貧困と富裕の間に浮遊する「アイ」。 ”掴み損ねたものすら分からない 終わりじゃない まだ始まってない リビドーすれちがう巡り合い 我要你的愛、你的你的愛 乾いたグラスに満たす愛 …… 道で騒ぐ学校帰りの中坊 俺を包む風も人の声も これは何? これは愛?” (『Ni De Ai』 Jinmenusagi feat.D3adStock) 『はじまりでありたいという欲望』、それは ウォ ヤオ ニー ディ 愛、 ニー ディ ニー ディ 愛。 しかし先立つ律法、その暴力に 『Fake it till you make it.』 「愛」よりもコスパのよい言葉、 あるなら教えてほしい。
ジクロロ@jirowcrew2026年4月4日読み終わったそうして言葉がついに言語を絶した領域の境を越え、内面の檻に囚われた獣を解き放つことが可能となる。わたしたちの内側で、落ち着きのない神経質な獣のように、くり返し小さな円を描いていたものが、ついに偏執的な周回の輪を飛び出す。 (『すでにはじまっていること』) 直線だと思われているものをたわませること。 時間、空間、スプーン。 蝶番をあえて劣化させ、扉の軋む音により、 「オトズレ」を告げさせること。 そういった意識的な遊びにより、 「内面の檻に囚われた獣を解き放つこと」。 『すでにはじまっていること』とは、 子どものころ当たり前のようにやっていたことを 今のこの身体で反復することにより 手繰り寄せられる。 そして、獣の行きたいところに、 おそれつつも着いて行くこと。


ジクロロ@jirowcrew2025年12月28日読み終わった受動的なはじまりというものは、すでに終わりを孕んでいる。戦争、自然災害、パンデミック。しかし「受動的」であるがゆえにその終わりを見出せずにいる状態のこと。 能動的なはじまりというものは、外的な事象そのものではなく、それらを動かし、絶えず流れ続けさせているその流れの滞留を身体的に感知し、それを一旦言葉により一つの堰として設(しつら)えること、あるいは他者あるいは自己の無意識により設けられた堰に気づきそれを受け入れること、そこからはじまる。 滞留、そのボリュームに、堰を切るのに必要な力は比例する。だから少しずつ、その「少しずつ」こそが希望のはじまりであるということ。 はじめから孕んでいるその終わりを、必然として肯定することから、ほんとうの「はじまり」がはじまるということを。


ジクロロ@jirowcrew2025年11月24日読んでる「「思考において始原的であるもの、それは不法侵入であり、暴力であり、敵である」。つまり、それは危険なもの、わたしを脆く、不安定にするもの、身を固く守るわたしに課せられるもの。いつもの道を外れざるをえなくするもの、わたしを回り道させるもの。はじまりとは、現実がわたしたちに切り傷を負わせ、挑発し、わたしたちを動揺させるとき、思考が「不法侵入によって、世界の偶然から生まれ出る」まさにその瞬間のこと。私の注意を否応なく集中させるものとの偶然の出会いこそ、「思考するという受難」の根源にあるものだ。」 p.95 思考のはたらきは免疫に近いのではないかとふと思う。外部からの偶然の侵入に、思わず発動してしまうところ。 しかし免疫と異なるところは、最終的に、その暴力的な偶然という裂傷を、自身の身体(記憶)に、物語として取り込もうとする受容性、その包容力ではないか、とも。


