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氷うさぎ
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@yomiyomi
音声入力で変換が所々変になっています。 小説は読みません。
  • 2025年8月23日
    写真にみる日本図書館史
    読書の時間は、周りから切り離されて「ここではない世界」と繋がることができる。 「今だけここだけ」ではないあり方は人間らしさの1つの表れのような気がする。 本書収録写真の、学校図書館や家庭文庫の子供たち、パーマを当てながら雑誌を読む女性たち、戦時下で休み時間に露天文庫に集まる大人たち、本棚を眺める受刑者、勉強している国会議員、こういった写真を眺めていると、「今だけここだけ」ではない世界とつながれるから人間は正気でいられるし、人間性を確保できるのではないかと感じた。
  • 2025年8月19日
    どうか俺を放っておいてくれ なぜかぼっちの終わった高校生活を彼女が変えようとしてくる(1)
    「あのな コミュ障じゃなくても人間関係が苦手ってのはあるんだよ 一時的なコミュニケーションと社会的なコミュニティに属することは別だろ」
  • 2025年8月17日
    悪魔も踏むを恐れるところ 1巻 (デジタル版ガンガンコミックスJOKER)
    『天使も踏むを畏れるところ』というのが人気らしいので、全く関係ないけれどもこれを挙げとこう。 3巻完結なのが残念でならないが、とぼけた感じが延々続くのが楽しい漫画。
  • 2025年8月17日
    図書館をつくる
    図書館をつくる
    「これ(書架)を見て既製品でもいいと思ったし、逆に、既製品の機能性が高いことに気がついた。意外にいいじゃないかと。」 「つくり込みすぎたものより優れた既製品がいいと、ここに行って思った。」 既製品が流通するのはそれなりの機能性を備えているから、という視点が新鮮だった。もちろん安かろう悪かろうもあるけれども。 あと、書架下部を本で埋めないで開けておくと冷暖房が効率よく回るというのが面白いtips。
  • 2025年8月17日
    つくる図書館をつくる
    つくる図書館をつくる
    西洋中世の書写と注釈の文化の指摘。 組織的に書写するということで、文字通り生産の場であった。現代の図書館はどういった行為を促進し生産する場でありうるだろうか? 当時は注釈が学問の大きな部分を占めていた。写本に書き込むということ。怒り余ったらしく本文にバツを書き込んでいる写本があるそうな。えぇ?それ他人も読むんじゃないの?でも、書き込むという知の生産様式があったということで、現代における図書館本への書き込み禁止がいつの時代にも当てはまるわけではないということ。
  • 2025年8月14日
    アステイオン102
    アステイオン102
    「インドが描く世界秩序」(長尾 賢)を読んで ・反イスラムということがインドを規定する大きな要素であり、このことはイスラエルとの友好関係につながる。 ・軍事協定を結んでいたソ連が崩壊し、武器供給が停止した経験から大国依存への警戒心が育まれ、現在の多極化外交につながっている。 ・大国依存への警戒心がアメリカへの接近を抑えている。そして、アメリカと間接的につながるために日本との関係が重視され得る。これは東南アジアも似た事情だと思う(「(東南アジア諸国で)「誰を信頼しているか」という問いに対して、さまざまな部門のエリートたちが第1位に選んだのは日本で、アメリカは第2位、欧州連合(EU)が3位、中国は大きく離れた4位だった」(「東南アジアの選択――なぜ中国に傾斜しているか」(『フォーリン・アフェアーズ』2025年8月号))) ・それゆえ日本は、アメリカへの警戒心を持つ国に対しての緩衝材と接着剤となり得るような位置にある。
  • 2025年8月11日
    フォーリン・アフェアーズ・リポート 2025年8月号
    フォーリン・アフェアーズ・リポート 2025年8月号
    米中関係、権威主義と民主主義、やはりこの辺りが主要トピックであるが、まずは環境犯罪から。 ・「木材資源と非合法マネー ―― 国際犯罪組織による森林伐採」p. 96より  違法伐採は木材の不公正な価格を形成する。その結果、公正な業者が損をする。  違法伐採の一つの大きな背景は中国による紫檀(ローズウッド)の需要だ。中国は、国内では厳しい伐採制限が課されているために輸入が盛んである。その産地では違法伐採の占める割合が大きくなっているが、北京は非合法組織とのかかわりを否定している。否定しているが、積極的な解決に乗り出さず、公正性への妨害になっている状況だ。    ・「インドの大国幻想――多極世界のポテンシャルと限界」p. 56より  インドは植民地支配の歴史から、世界が一極集中・二極集中するのを嫌う。ゆえに全方位外交を好むし、多極化世界における亀裂からの受益を狙うリアリストである。しかしこの姿勢はインドに益をもたらさないという。それは中国の勢いが圧倒的だからだ。  「中国のGDPは…15回も2桁台の成長を達成している。インドはそのようなGDP成長を記録したことはない」「中国の本当のライバルになるには、今後25年にわたって、インドが年8%で安定的に成長する一方、中国の成長率が2%にとどまる必要がある。これは現実的ではない」。  そして、今後、米中二極構造の出現が不可避であることを考えると、「中国を抑え込む、対抗バランスの形成には、インドは外国の大国と包括的に協力する必要がある。ここでの最有力候補は依然としてアメリカだろう。」  ただ、現状、トランプもモディも取引的外交を好むために価値観による結びつきが期待できなくなっている。アメリカの場合は福音派の影響が言われるが、インドの場合はヒンドゥーナショナリズムが背景となっており、友好関係の土台となり得る民主主義的理念が損なわれている状況である。もちろん「価値の共有よりも原則の共有」という考え方もある。しかし言うは易しで、例えばアメリカのイスラエル加担に誰が「原則」を見出せるだろうか。    ・「東南アジアの選択――なぜ中国に傾斜しているか」p. 72より  インドが中国と対立し、アメリカから距離を取っていることとは逆に、東南アジア諸国の姿勢は多様である。  フィリピンは中国との領海問題を抱えているがゆえにアメリカ寄りであることはわかりやすい。  反対にアメリカ忌避の例として、「インドネシアやマレーシアなど、東南アジアでもイスラム教徒が人口の大多数を占める国は、ガザ戦争をめぐってアメリカがイスラエルを支持していることに対する怒りから、アメリカから距離を置き、アメリカが唱える「ルールに基づく国際秩序」にも疑問を抱くようになった」。  中国の魅力の増大には「中国をイデオロギー的な脅威としてではなく、経済的機会をもたらしてくれる相手とみなすようになった」という事情が大きい。例としてインドネシアを挙げると、元々は反中反共意識が強く、「1960年代には中国系市民や共産主義者とみなされた人々が虐殺される事件もあった」が、「中国との合同軍事演習にも参加し、中国系市民を国内問題のスケープゴートにするやり方も回避されるようになった」。それも中国が提供する経済的機会ゆえである。  中国の魅力はもう一つあって、フン・セン率いるカンボジアのような権威主義体制にとって、「中国なら数多くの支援を得られるし、批判されることはほとんどない」。日本の「国体護持」のように、権威主義体制にとって体制保障は至高の目標であり、そして中国は権威主義体制を保障することに躊躇がなく、このことが魅力の源泉となっている。  これら様々な理由から東南アジアは全体として中国に傾斜している状況である。ただ、「「誰を信頼しているか」という問いに対して、さまざまな部門のエリートたちが第1位に選んだのは日本で、アメリカは第2位、欧州連合(EU)が3位、中国は大きく離れた4位だった」。もちろんそのことだけで中国への傾斜が解消されるわけはなく、目下の問題で言えば、トランプ関税の圧迫が東南アジアの中国傾斜を後押しする要因になっている。    ・「新しい世界の創造へ――もう過去には戻れない」p. 18より  トランプ関税を受けて「習近平は米関税策に大きなショックを受けていた東南アジア諸国を訪問し、緊密なパートナーシップを約束し、中国を国際秩序の擁護者として位置づけ」ている。  一方で米企業はサプライチェーンの脱中国化を目指してきたわけだが、そのさなかに「米政府はアジアの同盟国やパートナーにこのような関税策をとった」。「これらの同盟国が中国と似たようなレベルの関税に直面すれば、中国以外の国に米企業が製造拠点を分散させる、「チャイナ・プラス・ワン」という企業戦略は実現不可能になる」。  関税だけが問題なのではない。「AIチップの輸出規制に関するバイデン政権の政策を取り消したことで、優れた技術がライバルの手にわたりやすくなる可能性がある。さらに、トランプ政権がクリーンエネルギー技術投資に背を向けているために、中国がこの分野を支配するかもしれない。教育や基礎研究への予算削減も、アメリカの長期的な競争力を全体的に低下させるだろう」。全般にトランプによる華麗なオウンゴールという印象が拭い難い。  このようにアメリカが中国を利する一方、諸国は「(トランプが)国内における民主的規範や制度を攻撃しているだけに、ワシントンがどの国を敵対国や同盟国とみなし、なぜそう判断するか、いまや、わからなくなってきている」。結果、世界が流動化し(誰が為の流動化?)、「次期政権は、第二次世界大戦後、政策立案者たちが経験したことのない、壮大な「戦略的白紙」に近いものを受け継ぐことになる」。それはポジティブに捉えれば、「トランプ・チームがあらゆる政策の前提や慣例を取り払ったことで、次に誰が指導者になるにせよ、次期大統領は、より多くの選択肢を利用できるはずだ」ということになるが…。    ・「トランプは皇帝なのか――独裁を阻む抑制と均衡の再確立を」p. 32より  ネガティブに捉えれば、「トランプが大統領の説明責任を完全に断ち切ったために、次期大統領が法律を尊重し、憲法を順守するかは、いまやその人物の個人的な問題となっている」。そして、「大統領権限の抑制機能を議会が果たせなければ、今後も、米外交政策は新たに選出される大統領の気まぐれに全面的に左右されるだろう」。  当論考はこの状況を「数十年をかけて蓄積されてきた」帰結として描いている。  「現在の危機と最も関係が深いのは2001年の米同時多発テロ後における大統領権限の拡大、そして、イラク戦争と2008年金融危機という二つの失敗について指導者が説明責任を果たさなかったことだ」。これは議会が役目を果たさなかったことから来ており、その理由には「「テロとの戦い」の邪魔をしているとみなされることを恐れた」こと、「グローバル金融危機が、テロとの戦いの結果を検証する政治的エネルギーを奪い取っ」たことが挙げられている。  近年では、米議会は「連邦議事堂襲撃事件を扇動したことについてのトランプの弾劾裁判で、上院はトランプに対する弾劾で無罪判決を示した」。これは、共和党から造反者が出ず、「議会共和党はトランプを抑制する役割を事実上放棄した」ためだ。さらには最高裁も「「大統領在任中の公務に関する免責特権を認める」という判断を下し、実質的免罪符をトランプに与えてしまった」。「この判決によって、2020年大統領選の結果を無効化しようとした「ストップ・ザ・スティール」運動、連邦議事堂襲撃事件で果たした彼の役割も訴追対象とはされなくなった。それだけではない。トランプがアメリカの法律や憲法に違反しても、責任を問われる可能性はほとんどなくなっている」。  この状況を是正するためには、「違法で非倫理的で違憲的な行為に関与した者」を裁判所や公聴会の場に立たせる必要があるとのこと。また、「説明責任を問う制度とメカニズムを復活させ、補強しなければなら」ず、「議会は、自動的に発動される監視と説明責任の制度を構築して自律化することで、「大統領を抑制すべきかどうかという政治的選択」をする状況をなくさなければならない」。具体的には、議会への報告義務の拡大、高官級公聴会の制度化、また、「「議会が政策について質問をし、大統領がそれに答えなければ政治的代償を払わされる」という政治的な流れを復活させなければならない」。    今月号を読んで考えさせられたのはやはり民主主義ということである。  権威主義体制は、声を封じることに腐心する。逆に考えれば、民主主義とは声が開放されていることであり、他の声を受けてそれを封じたり無視することではなく、納得させようとする営みであると思う。そして、このような営みを取り入れることのメリットは、納得を求めて練り上げられた言説には力強さが宿るであろうということだ。「説明は遠慮いたします」を許していては、貧弱な言説が社会を変えてしまうことになりかねない。  ここで思い出したのは『世界』2025年6月号、「学術会議解体法案は、日本の科学の死だ」(山極壽一)である。  「(菅政権、)岸田政権、石破政権でも任命拒否の理由は説明されず、「終わったこと」の一言で片づけています。この件を不問に付したまま、日本学術会議の現在の体制あるいは会員の推薦というプロセスが間違いで、それを変えなければいけないと論点をすり替え、任命拒否の事態を覆い隠そうとしている」。こういうのを逆ギレというのであろう。これに対しては先の論考の「説明責任を問う制度とメカニズムを復活させ、補強しなければならない」という言葉が当てはまろう。  会員外の、選定助言委員会、候補者選考委員会、運営助言委員会、財務監査だけでなく業務監査も行う監事が学術会議に送り込まれ、現在の会員、連携会員、幹事会を解体し、自律性を奪う。そうすると、自律的であることからくる他国からの信用が失墜する。どうも政府効率化省が米政府を弱体化させたとか、軍の政治化による弱体化とかいったことが想起される。強硬性は強者の風格なのかもしれないが、それが堂々たるオウンゴールだったとしたら目も当てられない。  そのような失敗を避けるためにも、他者の声に真摯に取り組み、言説を強化していくこと、つまりは民主主義の実践とそのメリットの享受が求められるだろうと思う。
  • 2025年8月11日
    ぼっち・ざ・ろっく!外伝 廣井きくりの深酒日記 3
    これほど「誰やねんお前ぇ!?」とツッコミたくなるキャラもいまい(p. 92)
  • 2025年8月7日
    和漢朗詠集 現代語訳付き
    落花126 落花不語空辞樹 流水無心自入池 新古今140 恨みずや憂き世を花のいとひつつさそふ風あらばと思ひけるをば
  • 2025年8月2日
    アウトテイクス
    フランス…「個人および国家」と「中間集団」が対立項をなす。 アメリカ…「個人および中間集団」が「国家」と対立する 日本…「個人」が「中間集団および国家」と対立項をなす。「逆にいえば、ここでは「個人」が共同性と公共性を求めてゆくことは、ただちに「国家」ないしその下部組織たる「中間集団」に吸収されることを意味し、それを逃れるには「個人」の位置にとどまるしかない、と意識されやすい。」 「この前提を踏まえたうえで、どのように新たな共同性と公共性を構想しうるか。この小論でそれに答えるのは難しいが、最低限いえるのは、共同性の再建が同時に国家からの独立である方向を探らねばならないことである。  例として家族についていえば、大日本帝国期には「忠孝一本」が強調された。これは、親にたいする「孝」と国家にたいする「忠」の連続を示す表現であり、同じく儒教文化圏といっても中国などでは「孝」と「忠」の対立が思想上の問題となることと対比される。この「忠孝一本」の典型例は、軍隊の虐待から脱走してきた息子を、「親不孝者」と非難して当局に通報した母親のような存在であろう(これは実話である)。  こうした「家族」の共同性が、親の権威が弱体化すれば簡単に崩壊してしまう性質のものであろうことは、いうまでもあるまい。これを過去の軍事国家の極端な事例と思うならば、現在でも国家の定めた義務教育で不登校に陥った子どもを、「親不孝者」とみなさない親がどれだけいるかを考えてみればよい。構成員にたいし、自分の存在が上部の権威よりも尊重されているという感覚を持たせられない空間は、真の共同性の場とはなりえないのである。」 ((社会学評論』第五〇巻四号、二〇〇〇年、所収)「日本型」近代国家における公共性 p. 171 より抜粋)
  • 2025年7月31日
    「知の技法」入門
    「知の技法」入門
    「自分に適性があれば、このくらいの冊数(1,000冊)に恐れることはありません。楽しんで読んでいるうちに、気がつけば、そのくらいとっくに読んでいる、という状況になります。逆に言うと、その冊数に達するのがとても苦痛だ、という時には、そのジャンルに適性がないんですね。」 「本にとって中核的な主張であるというところと、自分にとって重要だというところは、必ずしも一致しないですよね。」 「それは本当に一致しないね。」 「表面の論理とは異なる、表面からわずかちょっと下に隠れているツボの経絡的なネットワークみたいなものを触覚的につかめれば、たくさんノートをとらないでも読んでいけるんじゃないか、と思うんです。」 「一番難しいのは、内容というよりも、その本の著者が何に引っかかって、ものを考え始めているのか、その点にピンとくることですね。」 「わざわざ入門書を書く人というのは、その主題や対象となっている元の著者のどこかに感動しているわけですよね。その感動がうまく伝わると非常にいい入門書になることがある。」 「解説するより「ここがおもしろい」というポイント、そしてその人が感動したことが伝わってくると、「ああ、感動できるものなんだ」という手がかりがつかめる。人の感動を手がかりにして自分も入っていけるということはあると思うな。」 「精読というのは(…)読み終わった時に「その人以上にその人になっているんじゃないか」という気分になるということですよね。」 (第二章より抜粋)
  • 2025年7月31日
    「知の技法」入門
    「知の技法」入門
    「考えてみると、人間は、本当に深い困難を乗り越えていこうとしたら、別の世界を構想するしかないですよね。」 「僕らがかつて読んだ人文書に感激したのは、その書物を通じて、この世界の「外」がありうる、ということを示された、という実感をもてたからじゃないですか。」 「「フランス革命」というまとまりは、現在何者かとして、この世界に関わろうとしている主体にとってしか、存在しないのです。世界を外から、無関心に眺める者には、「フランス革命」という出来事群は存在しないはずです。要するに、世界に内在し、世界に関わろうとしている者にとってのみ、フランス革命は存在する。人文書は、このような観点、つまり世界に内在しつつ、それに積極的に関わる者の視点から書かれている。」 (大澤真幸)
  • 2025年7月21日
    文豪ナツメは料理人が嫌い 3
    文豪ナツメは料理人が嫌い 3
    「ランチ客を切り捨てろ」 「どんな飲食店でも大なり小なり客を選別している。 あらゆる客の要望に応えることなどできないからな」 「二兎を追う者は一兎をも得ず… おふたりが理想のカフェを追い求めるならば 招かれざる客には退場してもらうしかない」
  • 2025年7月21日
    文豪ナツメは料理人が嫌い 1
    文豪ナツメは料理人が嫌い 1
    非常にざっくり言うと、様々な要素の関係が「ちぐはぐ」であることが店の不振に繋がっていくということだ。
  • 2025年7月21日
    不完全な司書
    不完全な司書
    「ルールの掲示それ自体が場の雰囲気を変えてしまう」 「注意書きだらけなので、入るのにも躊躇してしまう」 「(ルールを)掲示するかしないか自体もメッセージとなり、場のトーンを決める」 「「避けたいような事態は防げるし、本来開きたい方面にも開ける」ような完璧なルールを用意しておく必要はない。ルールを決めるのも使うのも、そのルールのある場に集うのも人間なのだから、お互い揺らいで、変化があっても構わない。」 「無粋であるだけで、コミュニケーションの可能性は閉ざされる。」 (p. 94 「ルールとの付き合い方」より)
  • 2025年7月21日
    VOICE(ヴォイス) 2025年 8月号
    渋谷のハロウィンについて言及されている。 引用の写真はいかにも度量の狭い街と言う印象が強い。もちろん実被害は看過できないが、実被害の大きさはハレの場の一極集中の裏返しであり、一極集中は、地方のハレの場の消失が招いているとも取れる気がする。 だとすれば、地方的なハレの場の復権が一極集中の緩和につながるのではないか。 ただ、そのためには、地方の総合的な力の低下と言ういつもの話が立ちはだかるのかもしれないが。 (巻頭対談より)
    VOICE(ヴォイス) 2025年 8月号
  • 2025年7月21日
    査察機長(新潮文庫)
    「うちの近所の公園は、ボール遊び禁止、犬の散歩禁止、ラジコン飛行機禁止、ローラーブレード禁止、バーベキュー禁止だ。何かやって遊んでいるなと思うと、翌週には禁止の看板が立てられてるから、もう看板だらけだ。本来公園は皆のものだから、イギリスのように場所を分けて、誰もが楽しめる工夫をすればいいのにな。日本全体に余裕の心がないのか、社会が成熟していないんだな」 「はあ。そう思います」 「名古屋ではエスカレーター上を歩くのも、禁止だそうじゃないか。今の日本のようにすべて禁止していくと、規則がないのと同じになる。そろそろ高度を上げた方が良いんじゃないか。下に聞いてみようか」 CDUを見ると既に安全マージンを上回っている。関係ない話をしていながら、高度のことも考えていたとは驚きだった。 … 新しい巡航高度になると、オートスロットルが最適速度になるように自動的にパワーをセットする。エンジンがまた単調な音を響かせ始めた。「爺っつぁまはのんびりしていて手が掛かる」なんてとんでもない。そんなことを言い出したのは、どこのどいつだろう。手を焼かせているのは俺の方だ。疲れた顔をして入ってきた白鳥も、帰るときにはあんなに明るい雰囲気に変わっていた。ちょっとした気の遣いようなのかもしれないが、自分にはとてもまねできない。見えないリーダーシップとでもいうのだろうか。」
  • 2025年7月21日
    芸術立国論
    芸術立国論
    シングルイシューを設定して、その実現の障害として新設大学をスケープゴートにし、疎外されていると感じている人達を扇動して炎上させる。それで当選したら、各方面に自らの至らなさを恥じる、点数稼ぎを兼ねた謝罪をし、最後に残るのはその人が為政者として続投するという事実のみ。 実に現代的である。 (氏の『青春と読書』2025年6月号の論考への感想だが、readsに登録が無いのでここに書かせてもらった。)
  • 2025年7月20日
    日本の夜の公共圏
    日本の夜の公共圏
    「7章 スナックと「社交」の空間」 酒はハレの日に飲むものなのに、どんちゃん騒ぎの酒宴が横行したのは、共同体の崩壊とそれに伴う人造的社交の出現のため。人造的社交空間は緊張を伴うので、それを緩和するために酒と女が強く要請される。(柳田國男。でも誤読かも。適当に読んでたので) そのような強力・強制的な人間関係を否定するとすれば、共同体への回帰という発想がありえるだろう。私にはそれは空想に思えるが。だったら完全孤独が解決法なのか。しかし人間はそんなに潔癖にはあまりできていない。マイケル・イグナティエフという人物も引いて、「市民としての帰属」「そこはかとない親密さ」「見知らぬ者どうしの静かな近しさ」という説明がされている。ここではスナック論と絡められているが、むしろ町の図書館に近いような気もする。 ちなみに8章で書かれていたが、図書館などの昼の公共施設が充実していると夜の公共圏たるスナックの件数は少なく、逆に、街が財政的体力に乏しく公共施設の少ない地域はそれを補完するかのようにスナック件数が多くなる傾向にあると。 人間は「ちょうどいい距離感」を心地よく思うような存在であるがゆえに、それが地理的に表現されるということもあり得るだろうと思う。
  • 2025年7月17日
    世界 2025年4月号
    『教員の長時間勤務をどう解決できるか?(広田照幸)』 ほとんどの政党が、教員の過重労働を解消することを謳っている。 しかし、 「「働き方改革」については、事務の効率化や行事の精選など、すでにやれることはかなりやってきたのが今の学校である。「もっと減らせ」と言われても、これ以上減らせる部分はそれほど多くない。児童生徒の指導の大事な部分に手をつけない限り、大幅な仕事量の削減は困難なのである。 教員以外のスタッフの充実というやり方も、まだ拡大すべきだと思うけれども、その効果は限定的である。というのも、そうしたスタッフは、教員に代わって授業を担当することはできないからである。 そう、教員の長時間勤務問題の根幹は、一人の教員の授業担当コマ数が多すぎる点にある。」 そうだとすれば、教育内容を付け加えるのではなく教育内容を削減するという政策を実行しなければいけない。 しかし、「PISAショック」や「学力低下論」が強い影響を持ったこの国で、そんなことが可能なのだろうか。 「小学校英語教育の新設、道徳の教科化、プログラミング教育の導入など量的に増やしつつ、同時に、学習指導要領の改訂に当たっては「内容は減らさず学習を高度化させよ」とか、GIGAスクール構想の導入で「個別最適化を進めよ」とか、そんなことを打ち出してくるから、人員が増えない現場はたまったものではない。」 とあるが、これは文科省が求めていると言うだけでなく、有権者が求めていることともそう離れてはいまい。 有権者がこのようなマインドだと、教育内容の削減は不人気政策だと言わざるを得ない。 教育内容削減が不可能なら、教員の増員しかない。 AIによれば「日本共産党、立憲民主党、れいわ新選組、自由民主党、国民民主党は、いずれも何らかの形で教員増員や定数改善について政策に盛り込んでいます。」 ただ、増員の基準として基礎定数と加配定数というのがあるのだが、重要なのは基礎定数のうちの「乗ずる数(≒担任以外の教員)」と言うものらしい。 「この「乗ずる数」を一〇年かけて一・五倍に引き上げるというやり方がよいのは、第一に、一度に新たな巨額の新予算が必要なわけではなく、毎年度の小幅な改善を積み上げていけばよいということである。第二に、個別自治体でも見通しをもって正規雇用教員の増員計画を立てられるということである。第三に、「学校はもっとよくなる」という希望を示せるから、教員の離職を減らし、教員志望者への魅力をアップすることになる。」 とのこと。 これもAIに調べてもらったら、「他党では、教員定数や学級編制の改善、少人数学級の拡大を掲げているものはありますが、「乗ずる数の引き上げ」を具体的に政策として提案しているのは現時点で日本共産党のみです。」とのこと。 「乗ずる数」と言う具体的な言葉を用いて政策立案・公開している点は評価できるのかもしれない。 たまたま参院選前なので政党を絡めてみたが、平時から考える必要のある話題であろう。 (2025年7月17日追記) もっとAIで調べたら次のように出た。やはり質問の仕方次第である。鵜呑みにはできないが、自分ではここまで到達できないことを考えると、やはりAIはすごいツールだと思う。 「教員定数算出における「乗ずる数」の見直しや増員政策をめぐり、明確にこの用語を使いながら提言・発言している具体的な政党や国会議員は以下の通りです。 政党 • れいわ新選組 • 大石あきこ議員が「教員の定数や“乗ずる数”の時代錯誤なルールを変え、1.5倍(小学校)、1.2倍(中学校)など抜本的増員を」と国会本会議で具体的に発言。旧来の“自然減(児童減少に伴う減員)”に依存した従来政策を厳しく批判し、「乗ずる数」自体をキーワードにして抜本的見直しを主張している。 • 日本共産党 • 公式政策や国会質問を通じて「基礎定数」や「乗ずる数」に直接言及し、1日あたりの教員授業時間削減のため、「少人数学級」と併せて“算定基準そのものの抜本的引き上げ”を訴える。 • 立憲民主党 • 教員定数の抜本強化を公約に掲げ、“少人数学級も、「乗ずる数」増を前提としないと実現できない”として今後の国会論戦や政策提言に意欲を示している。 補足 • 自民党・公明党 • 公式公約や国会文書には「乗ずる数」という語句を目立って打ち出している例は少ないが、各党の教育政策分科会内で検討対象として言及されている場合がある
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