私はなぜ自分の本を一冊も書かなかったのか (批評の小径)

11件の記録
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年4月25日読んでるまだ読んでる今では逆に、書く喜びは読む喜びの別の側面だと感じ始めていた。対になった二つの営みの間で作業が微妙に入れ替わり始めてさえいたのだ。(p.74) 言うなれば、書きためた断片と借用した抜粋を苦心して編集したような代物だ。それら恥知らずなページにおいて、あからさまであるにせよ隠されているにせよ、引用は少しずつ打ち明け話をするために使われているのか、それとも、打ち明け話の方が博識を披露する枠組みとなっているのか、もはや見定めるすべはないであろう。(p.77-78) 他者の本を読まなければ自分の文章は紡げないし、明白な引用でなくても自分の紡いだ文章のなかには確実に他者の書いた文章(の変形したもの)が入り込んでいる。この状況を嘆く、あるいは批判するかのような文章で締め括られるこの章のタイトルが「正しい使い方」なのは、おそらく著者がこのようなありかたをシニカルに推奨しているということなのだろう。元気が出る。
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年4月25日読んでるまだ読んでる日記はぜったいにだめだ、いちばんだめだ、これに手を出したらもう終わりだ、みたいなことを1ページにわたって書き連ねていて最高。
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年4月24日読んでるまだ読んでるなぜこれが「本」ではないかを説明する“著者”は読者がこのように言うだろうと予測する。 「本屋には」と彼は言うだろう(話しているのは読者である)。「本があふれていて、はばかることなく本を自称しているのに、読んでくれる人は一人もいないんですよ。はなからその名を拒む本で時間を無駄にはできません」(p.28) こんなことを書かれてしまっては、本屋として言わねばならないことがある。最高の文章だ、と。今日も夜になるまでお客さんがぜんぜん来なくて、でもお客さんが来なければたくさん本が読めるという面も確実にあり(言い方を変えれば、お客さんがたくさん来ると本が読めないということになる)、お客さんが来ない=読んでくれる人が一人もいないがゆえに、本屋である私が代わりにお前を読んでやろう、という意思を生じさせもする、この謎の状況を愛おしむほかない。
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年4月21日買ったそしてB&Bにてこちらを購入。タイトルだけで即レジだった。とにかく書いてとにかく本にしているこの2年くらいなので、逆になにかヒントというか、よさげな視点が見つかる気がする。つまりさらに本を書こうとしているわけで、欲の塊である。とか考えてたら下北沢駅の2階にあるプリクラコーナーが視野に入り、機体に書かれている「純欲盛れ」の文字列に混乱した。「純な欲」とは。盛れは圧倒的な欲望であり、それを修飾する「純」は果たしてなにを意味するのか。 それにしても下北沢の「本を買って読むぞ」と思わせる感はすごい。シンプルに羨ましい。幕張にこういう空気を根付かせるには相当な時間がかかる。とりあえず、店内奥の部屋をもう少し「本が読めるスペース」にしようかしら。すでに十分に読めるスペースではあるのだけど、特にそういう周知の仕方はしていない。ただ、そういう周知の仕方がこのお店にとってベターかはわからない。お店に来る人を増やしたいというこの欲求は、純な欲なのだろうか。