ユリイカ(2026 4(第58巻第4号))
ユリイカ(2026 4(第58巻第4号))
一之瀬ちひろ
在本彌生
工藤順
櫻井映子
沼野充義
渡辺泰子
若木信吾
青土社
2026年3月27日
13件の記録
- gura@yurakotono2026年6月9日読み終わったリトアニアやチュルリョーニスについて、色んな角度からのエッセイや論考などがギュッと密度濃く収められていて、とても読みごたえがあった。 さいきん興味を持ち始めたばかりで、専門的な論考はちょっと理解が難しいところもあったけど、リトアニアについてもチュルリョーニスについてももっと深く知りたくなった。

Ryu@dododokado2026年5月28日読んでる「しかし穿った見方をすれば、内的な生の拡充を謳うその理論は、芸術至上主義の理想が極端に肥大化した観念的なものと言える。「見えないものを描く」。抽象絵画の原点にある理念であり、聞きようによってはスピリチュアルな含意が感じられなくもないこの「ドクトリン」は、そもそも「見えないもの」が絵画という外在化された形式に具現化された途端に「見えないもの」ではなくなってしまうという矛盾を孕んでいた。この問題にあえて拘泥したのがカンディンスキーを論じたミシェル・アンリである。「絵画が表現したいと思っている、抽象的で、つまり結局のとこかこの世界とはまったく無関係な内容が、実際のこの世界の外にあるとすれば、そうした表現の諸方法とはこの世界には属さないし、諸方法自体はたしかに目に見えないのではないだろうか?」(4)。 アンリが指摘するのは、物質を超越するとされる内的世界という主題と、物質的基盤に依拠する絵画形式の不一致である。目に見えない内的世界を表現するのであれば、その外在化の方法や形式もまた秘匿された「夜」の領域に属さなければならない。アンリはこのジレンマを「絵画の内容と諸法の分離」と呼び、もはや絵画の内容と諸方法を区別する考え自体を廃棄すべきで、どちらも絵画の比類なき本質なのだと主張する(5)。これは近代絵画の問題設定としてはごく基本的な出発点なのだが、こと「スピリチュアルなもの」を表現した作品を再考する際には、絵画というひとつの現実を軽視しないために何度でも立ち返るべき原理ではないかと思われる。 本稿では「内的世界という主題と物質的基盤に依拠する絵画形式の不一致」という観点を踏まえ、場合によっては「不一致」や「分離」をあえて引き受ける方法論も視野に入れつつ、アフ・クリント、クプカ、チュルリョーニスがいかにそれぞれの「見えないもの」を表現する矛盾に向き合ったかを、絵画の造形的・物質的特質に即して考えてみたい。彼らはカンディンスキーのような抽象の徹底化に向かったわけではないし、パイオニアの称号に相応しいほど他者と共有可能な「ドクトリン」を構立したわけでもなかった(クプカは理論家として著書『造形芸術における創造』[一九二三]を残してはいるが、カンディンスキーの著作ほどの影響力は持ち得ていない)。しかしその作品には、「抽象絵画」の定義が確立せず、画家たちのあいだで共有されていなかった過渡的な時代状況(もしくは制作環境)に生きたがゆえの独自路線の可能性が感じられるのだ。」(中島水緒「見えないものを描く アフ・クリント、クプカ、チュルリョーニス」90)
Ryu@dododokado2026年5月27日読んでる「言い換えれば、独仏の色彩論が「見る主体」を中心に世界を再編したのに対し、チュルリョーニスは、その主体すらも宙づりにしたまま、光/色だけを先行させる。彼の作品全般に見られるように、光は誰のものでもなく、どこから来たのかも分からない。ただ発生し、その周囲に世界が仮構される。この点において、彼の光は、同時代の科学的色彩論を参照しつつも、それを芸術的に裏切るものとなっている。その裏切りこそが、チュルリョーニスの絵画を、印象派・新印象派、ポスト印象派とも、またドイツの感覚論的美学とも異なる、独立した位置へと押し出しているのである。」(加藤有希子「太陽でも月でもない光 チュルリョーニス、想像と病、近代の照明、正体不明の男」84) 「チュルリョーニスの光は、電気が近代にもたらした二重の意味──啓蒙と不安、合理性とオカルト的想像カ──を、象徴としてではなく、構造として絵画に定着させている。彼の画面に散在する発光は、夜が初めて人工的な光に侵食された時代の、人々の感覚の揺らぎを、静かに、しかし執拗に反復しているのである。」(同85)












