別冊NHK100分de名著 集中講義 夏目漱石

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時間のかかる読書人@yoko452026年5月27日ちょっと開いた@ 自宅胃病は「過去」という病 近代個人主義と「お腹の具合」 漱石の病には、精神の病と胃の病の二系統があった。精神の病は自分をまるごと呑み込んでしまうような果てしない闇として感じられた。未知のものへの不安も伴う。これに対し、胃病のほうは慢性的で日常的。いつものやつが何度も迫ってくる既視感がある。「ああ、またあれか」「ああ、あのときのせいだ」という感覚。精神病の不安が未来的であるとするなら、胃病は過去からの集積を暗示する。 漱石にとっては、「片付かない」という感覚のほうが安心だったのかもしれません。面倒くさいけれど、少なくとも説明可能で具体的。「胃の病気がこのあたまの病気の救い」とはそういうことだったのではないでしょうか。胃病のおかげで健三は不健康な健康さのなかで、片付かないがらくたのなかで、一服の安定を得た。『道草』はそういう小説として読むこともできるように思います。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月25日読んでる@ 自宅置かれている状況が不快なとき、健三はそれを生理的、身体的な不快として受け取ります。ともかくもやもやと胃のなか、お腹のなかが気持ちわるい。極端に言えば「道草」は、うまく言葉にならない「嫌悪感」に、慢性的な胃部不快感という「居場所」を与えることで前に進む。世界は胃的な鏡を通して理解される。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月25日読んでる@ 自宅漱石の病として、あたまは陰にかくれたもの。胃は日の当たるところにあった。そして「胃の病気がこのあたまの病気の救い」だった、と夫人は見抜いた。それをもっともよく示すのが「道草」です。得も言われぬ不快感。重苦しい気配。主人公の精神は押し潰されそうになる。しかし、胃部不快感がこうした不快感に表現を与えることで、主人公なかろうじてこの世界、この日常につなぎとめられる。冒頭に示唆されたほとんど無限大の不安や恐怖が、慢性的な胃部不快感のエピソードを通して「胃弱」という型のなかに収められ、少しずつ、鎮められていく。胃部不快感を得た健三は、そのおかげで無限大の闇からこの世に連れ戻されるのです。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月22日読んでる@ 自宅反復は「くりかえし迫ってくる嫌な過去」や「のがれようのない不快な現実」を想起させます。日常生活にはいくらでも「くりかえし」が潜在します。それがいちいち何とも気持ち悪いこととして健三には実感される。「道草」はそんな作品なのです。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月22日読んでる@ 自宅第4講「道草」とお腹の具合 世界の根本には奇妙で謎めいた穴がぽっこり空いている。そのせいで、得も言われぬ「気持ち悪さ」が生まれる。これこそが漱石の描く、「私生活」なのです。私小説作家の赤裸々な告白とは違う。恥ずかしくて言えないことをあえて暴露する、という話ではない。漱石の日常は、もっと捉えどころのない恐ろしげで暗い感覚へとつながるのです。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月12日読んでる@ 独立行政法人 国立病院機構 埼玉病院「三四郎」と歩行のゆくえ 野々宮の家を訪れた、と書けば済むところでも道順が丁寧に示される。それを読めば、三四郎が移動しながらキャッチした視覚情報や視線の動きを、読者が体験できるわけです。 そこ場所の選び方にはある特徴がみられもします。三四郎の移動が、「どこかに到達することを目的とするのでなく、点在する複数の場所のあいだをひたすら移り歩き、動き回る」 その理由として、三四郎が東京の中心部から排除されている。排除されているから、ひたすら歩き続けるしかない。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月7日読み始めた@ 自宅たべっぷりと書きっぷりが似るところがある。 作品とほんとうに「出会う」にはどうしたらいいのか。 小説を読むというのは、全身的な行為。頭や感情はもちろん、体も忘れてはいけない。胃腸、呼吸、背骨も大事。感触を味わい、文章のリズムに身を委ねたい。笑ったり、つっこんだり、顔をしかめたり。場合によっては、ぜえぜえあえいだり、踊り出したり、地団駄踏んだり。- 星鴉@guricco2025年9月13日読み終わった借りてきた先日読んだ、夏目漱石の『文鳥』。 その文庫に収録されている、『夢十夜』をついでに読んでみたら、とても面白く、今更ながら夏目漱石に深く興味を持った。 と言う訳で、少し学んでみようかと図書館から借りてきた本。 途中で放り出してある『吾輩は猫である』、気になりながら難しいだろうと遠ざけていた『明暗』、『道草』。 読んでみようかなぁと思わせてくれた、集中講義だった。







