恐怖の正体

27件の記録
- DN/HP@DN_HP2025年9月30日春日武彦さんが中学時代に級友に教えられた「酸鼻なシーン」のあるタイトルが明記されていない時代劇知ってるんだよな、なんだっけ、と思っていたけれど、南條範夫の『第三の影武者』(が原作の映画)だ、とさっき思い出した。小説も読んでいないし映画も観ていないんだけど、とあるPodcastで紹介されていたのを聞いて印象に残っていたのだった。ということで、その原作小説が読みたくなったけど、登録されていなかったので、そんなことをこちらに書いておく。
- DN/HP@DN_HP2025年9月28日読み終わった心弱きときの活性の糧「わたしはこのような物語が何食わぬ顔で日常にまぎれ込み、子どもや大人の不意を突いて凝然とさせる事態を好ましく思う。ときおり退屈な毎日がささやかなグロテスクや恐怖で脅かされたり変質することによって、わたしたちは生きることの意味を問い直す。そうであってこそ、まっとうな人生を歩めるというものだろう。」 人のというか「私の」恐怖の正体に、文献に映画、精神医学の知見、それに自らの経験と記憶を使って迫っていこうとするエッセイ、と言っていいと思うし『無意味なものと不気味なもの』(最高)とも近い構成、読み心地のような気もする。やっぱり恐怖はとても個人的なものだから、それを語るときにも個人的にならざる得ない、というかそうであって欲しい。絶妙に主観的で感情的な語り口は完全に読ませる。春日先生の話はやっぱりめちゃくちゃ面白い。 他人の、多くは春日先生の恐怖の話に「そうなんですか」と驚けば、次には「そうなんですよ!」と納得したりもして、蘇ってくる過去の恐怖と、これから訪れるかもしれないその瞬間を思って少し震える。「恐怖の正体に肉薄する」ということは、更なる恐怖に遭遇するということなのか。帯で京極夏彦もそんなようなことを書いていた。それに紹介されるエピソードや作品の引用と解釈がそもそも怖い。恐怖を語るということは、恐怖そのものにもなるのかもしれない。 わたしは深夜に何げなく読み始めたこの本に不意を突かれて一瞬凝然とさせられた。鬱屈としたような毎日が恐怖に脅かされて少しだけ変質した。ということは、生きることの意味を問い直せるかもしれない。そうであれば、まっとうな人生を歩める、といいですけどね。それはともかくとしても、この本はわたしの「〈心弱きときの活性の糧〉(春日先生が「心密かに行為を寄せている」ある文庫レーベルのキャッチフレーズ)」になった、ような気がしているのだった。 まあ、身も蓋見ないことを言えば、面白い本読むと元気出るよね、みたいな話だったりもするのだけど、この本がめちゃくちゃ面白かったことは確かなことなのだ。
- DN/HP@DN_HP2025年9月28日読んでる「娯楽における恐怖は、それを味わう者は安全地帯にいる。だから苦痛を受けない。抜け殻の、フェイクの恐怖だ。だが、だからこそ極限という要素をより純粋に表現し得る場合もあるのではないか。わたしたちには極限を確認したり見届けたり実感したりしたい欲望がある。その欲望は恐怖と馴染みやすいどころか、むしろ捏造された恐怖にこそ高い親和性を示すと思われるのである。」 思い当たる節がある。
- DN/HP@DN_HP2025年9月27日(恐怖症は)「結論から述べるならば、それは心理学や精神病理学では扱いきれない領域だ。あえて(大真面目に)申せば、むしろ文学が取り扱うべきテーマではないのか。ある特定の事象に伴うイメージや言説とわたしたちの不安がどのようなミラクルを経て結びつくのか。ある種の相性のようなものがあるのか。恐怖症が特殊であると同時にそれなりの普遍性を感じさせるのは、つまり世界全体が油断のならぬ場所であるという事実を示唆しているからなのか。それらへの答えは、文学の営みこそがもたらしてくれるのではないか。 考えれば考えるほど、恐怖症は科学の範疇から遠ざかっていくのである。」
- 泥@Day-Neigh2025年6月17日読み終わった恐怖の定義として挙げられた3項目が、あたしがあらゆるものに感じる恐怖心にことごとく当てはまったことで、あたしの恐怖心がより裏付けされ、より強固なものになった 何度も読み直すと思う