語るボルヘス

9件の記録
Aquaporin@aquaporinase2026年8月1日読み終わった40 ヒュームの話 名詞がなくなると動詞しかない そうなると、我思うはなく、無人称の思うしかない 何かが考える、考えられる そうなると、考えられる、ゆえに何かが存在する 51 分身としての不死性と、その前のページの意志や知性はどう関わるのか 53 個人的なものではない不死性か それは単純な記憶量とは違う 意識せずに思い出すこと。 宇宙的な広がりを持つ不死。 スウェーデンボリ 仮に地獄や天国に行ったところで、旅行記に過ぎない みんながお友達を連れてくる 時間 時間の考え方はドゥルーズと近いように思うが、それはプラトン的なところから来ているのだろうか
ジル@本@SHJHW_Book2026年7月19日読み終わった「記憶に値する即興の文学的創造 1978年、ブエノスアイレスで行われた連続講演の記録。」 (本書帯より) ブエノスアイレスのベルグラーノ大学で5回にわたって行われた講演の記録集なのだが、ボルヘスの話を生で聞けるって羨ましすぎないか。 テーマはそれぞれ「書物」「不死性」「エマヌエル・スヴェーデンボリ」「探偵小説」「時間」。 さまざまな小説家、詩人、哲学や数学ほか多くの学者の思想や言葉を紹介しながら展開される講演は、刺激的で示唆に富んでおり、考えさせられる。 個人的には特に「書物」の回が興味深い。 電子的な端末に内容がおさめられた電子書籍が、何度目かの元年を超えてついに定着した昨今。新約聖書がうまれて当時の「聖書」が「旧約聖書」となったように、書籍の話をするのに「紙の」「電子の」と枕詞をつけて区別するようになった今の時代を、ボルヘスだったらどう論じたのだろう。 〈2026/07/29 追記〉 ところで、あとがきで触れられている『ボルヘス、オラル』を持っていて先日読んだばかりだった。 そして、薄い積ん読を読もう!と棚から適当に取ったら本書で「これは……限りなく『ボルヘス、オラル』では?」となったという。 しかし私が持っている『ボルヘス、オラル』は水声社刊。あとがきでは風の薔薇刊。 はて? と思って調べたところ、水声社は以前書肆風の薔薇という名だったとか。 私が所持しているのは新装版なので、初版は風の薔薇時に、新装版は水声社になってから出したということらしい。
読書好きSE@history122026年1月12日読み終わった古本屋さんで買って一気読みしました。 特に「書物」が共感でしかない…! 勝手に要約すると、書物は記憶と想像力が拡大延長されたもので、紐解くたびに変化するもの。 再読する度に捉え方が変わるというのは実感しています。 ボルヘスの『伝奇集』も読み直してみたいと思いました!
読書猫@bookcat2025年7月29日読み終わった(本文抜粋) ”古い書物を読むということは、それが書かれた日から現在までに経過したすべての時間を読むようなものです。“ (「書物」より) ”われわれにとって自我とは取るに足りないものであり、自意識など何の意味もありません。私が自分をボルヘスだと感じ、あなた方がそれぞれ自分自身をA、B、あるいはCだと感じたとしても何の違いがあるでしょう。違いなどありません。そうした自我というのはわれわれ全員が共有していて、何らかの形ですべての被造物のうちにあるものなのです。(中略)ひとことで言えば、不死性は他人の記憶の中、あるいはわれわれが残した作品の中に生き続けることなのです。作品が忘れ去られたとしても、気にすることはありません。“ (「不死性」より) ”われわれは朝になると目を覚まし、一日の仕事を終えてふたたび眠りにつきます。眠りがなければ、生は耐え難いものになるでしょうし、喜びを得ることができませんし、生きることさえできなくなります。つまり、われわれにはすべてが与えられているのですが、それはつねに少しずつもたらされるのです。“ ”実は、われわれは日毎に死に、日毎に生まれているのです。われわれは絶え間なく生まれ、かつ死んでいるのです。それゆえ、他の形而上学的問題よりも、時間の問題がわれわれの心に強く響くのです。なぜならそれ以外のものは抽象的なものだからです。時間の問題はわれわれの問題なのです。“ (「時間」より)




