精神の生態学へ(下)
12件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年10月20日読んでる聖書の中で最も厳しい言葉は、聖パウロがガラテア人に宛てた、「神はあざむかれない」という言葉だろう。人間が、人間を包むエコロジー全体と、どのような関係で結ばれているかということを、この言葉は鋭く突いている。環境汚染や資源搾取の罪について、それが些細なものだとか、悪意はなかったとか、善を為そうとしたゆえのことであったとか、「自分がやらなくても、きっと誰かがやったことだ」とか申し開きをしても無駄である。生態系のプロセスは、あざむかれない。 (都市文明のエコロジーと柔軟性) 「神はあざむかれない」、 「生態系のプロセスは、あざむかれない」、 これらは、 事実は事実として永遠に残る、 を言い換えた表現であると捉える。 「神」や「生態系」は、一人の人間、一匹の生物の力の及ばない力であり、秩序なき秩序。 とすれば、 それらをあざむきようのない「事実」とは、 ひるがえって「神」や「生態系」にとっての 「ゼロではない可能性」という力を秘めているとも 言えるのではないか。 「ゼロでない可能性」とは、目的意識よりも 目的意識のない自然体のほうが、値として大きいのではないか、という仮説のもと日々を過ごしてみたいという思いが、この一文から芽吹いてくる。

ジクロロ@jirowcrew2026年10月14日読んでる「変われば変わるほど同じまま」とはフランスの諺にいうところだが、生物学的・生態学的システムを見ていく場合、その逆命題の方が当を得ているようだ。すなわち「一定であればあるほど、多くが変化している」。ある変数の恒常性を、他の変数が変化することで維持するということだ。 …… 学習の現象にも、社会の変化にも、同じ論理が当てはまるだろう。どちらにおいても、なんらかの記述命題を「真」に保つために、他の命題が変化し続けている。 (p.206) 命題の「真」を保つ、その延長線上に「秩序」が準備される。 秩序の維持には物質とエネルギーと絶えざる流動が必要となる。これらの変化(変換)により秩序が保たれる。 例えば、ある国家のアイデンティティを守るために、どれだけのひととものとエネルギーがこれまでに費やされてきたのか、ということを考えると、いい意味でも悪い意味でも死ぬ気でそれを維持しようとする。 「なんらかの記述命題を「真」に保つために、他の命題が変化し続けている。」 この総決算を「犠牲」と呼ぶところに、ナショナリズムの萌芽、歴史のはじまりがあるのではないか。

ジクロロ@jirowcrew2026年9月30日読んでる一定したストレスが制御の位置の求心化を促し、変動するストレスがその遠心化を促すのだとすれば、進化の図柄を決定する遠大な時間と変化のレベルで、制御が遠心的な方向へ移行していくのは理に適ったことであると思われる。 (p.48) あえて「変動するストレス」を自ら作り出したり、その中に飛び込んでいく人もある。賭博者、冒険家。「遠心化」とは、制御不能な神や自然を相手に、どこまで戦えるかという無謀とも言える試み。 逆にストレスのない(誰にも相手にされない)「無双状態」というのが一番危険な状態。これは遠心に敗れた者が見せる病的なまでの求心の果ての孤立。

ジクロロ@jirowcrew2026年9月22日読んでるこの三冊は自分にとってあまりにも得るところが大きい。 STEP TO AN ECOROGY OF MIND、タイトルの邦訳において、「STEP TO」を「へ」という助詞一文字で訳しているところにも感銘を受ける。 「生態」に関する本である、文字だけではわからないことも多い、だから自分なりの「生(命)態」を、いろいろと手を動かし、極力頭を使わずに、心の赴くままにかたちにしてみる。すると、創作における体と心の動きと揺らぎと、そこから得られる学びと反復について、書かれてあることが文字通り「身に染みて」わかる、自分の体験したことが文字として理解できる、驚き、そして歓び。 読みながら作り、作りながら読む。 この作品に対するオマージュとして、学習の証として、自分なりの「STEP TO」を埋め込んだ上中下巻の文庫本カバーが本日完成する。 今のところ上と中と、あらゆる本への脱線と創作が加担して、中の途中までしか読み進めていない。


ジクロロ@jirowcrew2025年12月25日ちょっと開いたマップはテリトリーと違うとして、テリトリーとは一体何なのか。マップの作成者は、網膜なり測量器なりを持ってテリトリーに行き、一つの表象 representation すなわち「表し直し」を行い、結果を紙の上に描くわけです。紙に描かれるのは、その人の網膜に表し直された象(すがた)を、ふたたび表し直した象であります。表し直される前の「元のすがた」は、どこまで問いつめていっても手に入りません。無限に遡行していくばかり。限りない地図の連続ができるだけで、現地そのものは得られない。「現地」とは、一種の「ものそれ自体」だということができるでしょう。それと直接的に関わることはできない。つねに表象化のプロセスが間に入って、土地をフィルターにかける。精神の世界は、マップのマップのマップが際限なく続く世界なのです。 (『形式,実体,差異』) スナフキンが似たようなことを言っている。 (『ムーミン谷のひみつ』) 普段使いの言葉とは、「テリトリー」であり、それはマップのほんの一部を囲い込むために使用される道具。 詩で扱われる言葉は、マップを破り、「現地」から「世界」を掴みにいく。それは決して「世界」を得ることができないとわかりつつ、「世界」になろうと足掻いている。 「生きている言葉」とはそのようなもののことを言うのだろう。






