

Ryota
@ausryota
- 2025年7月9日ニーチェジル・ドゥルーズ,湯浅博雄読んでる「ニヒリズムは生成を、罪を償わねばならないなにものか、そして〈存在〉のうちへと吸収され、解消されるべきなにものかとみなしている。また多数性を、なにか不当なもの、裁かれるべきもの、そして〈一なるもの〉のうちへ吸収・解消されるべきものとしてみなしている。」 〈存在〉より生成を、〈一なるもの〉より多数性を重んじるドゥルーズならではの、きらりと光るニーチェ解釈。ドゥルーズは決して、固定的・静的な〈私〉に自分を押し込めない。いまここでぽこぽこ作られるような、生き生きしたわたし。生き生きしたわたしは、その場と関係に伴って、複数存在することになる。 この生成と多数性というドゥルーズのキーワードは、和辻の間柄、平野の分人とも響き合うものがある。
- 2025年7月2日血の轍(1)押見修造じゅうぶん読んだ毒親が主題なのだが、怖かった。一人で読んではいけない。 作品自体が精緻に作り込まれており、作者の実体験なしにここまでは書けないだろうと思わされるほど。恐らく、作者は自ら体験した世界の延長に、我々を引き摺り込もうとしている。筋書き、キャラクター、描写、すべてが輪をかけて怖いのだが、これは完全なフィクションではないのだと予感させる恐怖もある。 この類稀な怖さ、そして誰もが一瞬にして直感するような母の「異常さ」が何なのかは興味深い。また、母の黒さにかすんで見えづらいが、従姉妹の家族にもどこかぞわりとする「異常さ」がある。
- 2025年6月16日
- 2025年5月17日啓蒙の弁証法M.ホルクハイマー,T.W.アドルノ,徳永恂読みたい哲学が重箱の隅を突く、小さな専門コーナーに成り下がると、社会への有効な批判力を持ち得ず、滑稽な遊びとして馬鹿にされる。役に立たない御高説、学者たちの遊び、もしくは、深淵を気取る自己探究か。哲学はどれでもない。社会にとって無害な趣味ではなく、社会の最も痛いところを突いてくる、現実変革のための批判である。輩の余興に成り下がったままに哲学をさせておくな、とアドルノは迫る。ぜひ読みたい。
- 2025年5月14日
- 2025年5月14日
- 2025年5月12日
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