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よろしくお願い致します。
- 2025年5月11日
- 2025年5月11日
- 2025年5月11日羊をめぐる冒険(下)村上春樹読み終わった@ カフェ主人公は別荘にたどりついてから、いろいろな手がかりを見つけます。作者は主人公の「手がかり」の発見を、さりげなく演出しています。作者は、以上の装置(「手がかり」の発見)が作動していることを示唆するために、別荘で主人公に『シャーロックホームズの冒険』を意図的に読ませています。 余談になりますが、僕は先日『シャーロックホームズの冒険』(角川文庫)を読み、ホームズの示した、論理的推論の能力を堪能しました。この「論理的推論の能力」は、ドストエフスキーの『白痴』の主人公・ムイシュキン公爵が示した、「他者の表情を読み取る能力」とは、発現の仕方が違うと思います。(ちなみに「他者の表情を読み取る能力」を、ディックはテレパス(読心能力者)として変奏し、作中に登場させています)。 「他者の表情を読み取る能力」は、おそらく心の病気(ムイシュキンは癲癇でした)を発症して、そのあと寛解したときに、発現する方が一定数いると思います。「論理的推論の能力」の発現の仕方は、僕にはうまくわかりません。しかし過去に、「論理的推論の能力」が高い方と出会ったことはあります。その方は、発達に偏りがある方でした。 『羊をめぐる冒険』で登場した「羊男」は、『海辺のカフカ』に登場した「カーネルサンダース」と、役回りが似ていると思います。彼らをどのように解釈できるのかは、もう少し考えてから、感想に綴りたいと思っています。
- 2025年3月22日銀河鉄道の父門井慶喜読み終わった
- 2025年3月22日銀河鉄道の父門井慶喜『銀河鉄道の父』は、父から子への視点の物語です。純文学界隈では、「子」から「父」への視点の物語が多数存在しています。夏目漱石は、「父」の制度の問題点、矛盾点をあぶり出しています。太宰治は、「父」への愛憎まじりの抗議、反抗を叙述しています。村上春樹は、しばしば「父」の不在がテーマになります。以上の主題を持つ文学を、僕は好んで読んできました。したがって『銀河鉄道の父』の「父」から「子」への視点は、僕にとって“転回”でした。「父」から「子」への視点の作品を、これから読んでいきたいと思います。
- 2025年3月22日銀河鉄道の父門井慶喜読んでる
- 2025年3月22日羊をめぐる冒険(上)村上春樹村上の大長編の多くは、主人公が「妻と離婚した」という事実から始まります。この設定を使用する目的の1つは、村上の描く非日常・非現実の「世界」へ、主人公をいざなうためだと思います。村上の作品の主人公は、社会に対して適応力があり、その社会と一定の距離を置いている方が多いです。したがって、非日常・非現実の「世界」へ主人公に入ってもらうためには、その主人公の「内在性」(心身)の変化ではなく、「外在性」(事象)の変化を原因とする必要があります。 ちなみに、主人公が非日常・非現実の「世界」での「冒険」のさいに、「内在性」(心身)の原因により、その「世界」に居る(もしくは居た)方々が登場します。『羊をめぐる冒険』では、「羊博士」、「鼠」、「先生」が該当します。この3人は非日常・非現実の「世界」の象徴である“羊”を、違うベクトルで使用しています。「羊博士」と「鼠」は、“羊”を“美”として使用し、「先生」と「秘書」は、“羊”を“悪魔”として利用しています。“美”と“悪魔”は、根が同じ“羊”から派生しているので、両者は表裏一体の関係です。
- 2025年3月16日仮面の告白三島由紀夫読み始めた
- 2025年3月16日春琴抄改版谷崎潤一郎読み終わった『春琴抄』が発表された年は、1933年(昭和8年)です。僕は読む前に、1912年(明治45年、大正元年)前後の作品かと思っていました。しかし読み進んでいくうちに、谷崎の初期作品(『刺青』など)とは、違う「匂い」がしました。『春琴抄』は、段落下げがなく句読点も少ない作品です。おそらくこれらの仕掛けには意味があります。それは近代日本以前の古典、とくに平安時代の文章表記のオマージュです。以上の表記の場合、物語が連綿と綴られている印象を読者に与えます。僕は、巻物(作品)を引き伸ばしながら読んでいる印象を受けて、この表記が気に入りました。平安時代の代表的作品の『源氏物語』が、「いづれの御時にか」で始まるように、『春琴抄』も回想形式の作品です(ちなみに、『源氏物語』の原文には、段落下げと句読点がないそうです)。谷崎は、古典の「お約束」を踏襲しているのでしょう。『春琴抄』の後半で、春琴は顔を損なわれてしまいます。谷崎は“顔”を失うことを物語に取り入れることで、江戸時代の都会の習俗を表現しているのだと僕は思っています。この作品のおもな舞台の時代は、江戸幕末から明治19年(春琴が亡くなる年)までです。以下は推測ですが、このあたりの時代は、文字通りの“美”が人々の「位」を決めていたのではないか。たとえば歌舞伎では、とくに“顔”を飾ります。これはおそらく江戸時代の市井の方々の常識を抽出したのだと僕は思っています。また、明治19年は、言文一致体がこれから創られていく年であり、「心理」や「内面」はまだ創られていません。そうであるからこそ、この時代には文字通りの“美”が、大切にされたのではないか。このような時代を生きた春琴にとって、“顔”を損なうことは死ぬことに等しかったのではないでしょうか。
- 2025年3月10日
- 2025年3月10日
- 2025年3月10日銀河鉄道の父門井慶喜読んでる@ 自宅
- 2025年3月10日自由の牢獄ミヒャエル・エンデ,田村都志夫読んでる@ 自宅
- 2025年3月10日羊をめぐる冒険(上)村上春樹読み始めた@ 自宅
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