羊をめぐる冒険(上)

38件の記録
- ゆん@yk505252025年5月20日読み始めた読み終わった2025/5/20 読了 なんだかんだ言いながら引き込まれ、下巻へ。 2025/5/14 読み始め もしかしたら今の気分と違ったかも。 でも読みやすいから、ボチボチ読み進めてみる。
- mkt@mkthnsk2025年5月5日読んでる読み終わった再読中ずっと再読しようと思っててやっと。すっかり忘れちゃってたから、なにこれめちゃくちゃ面白いーってなってる。多分初めて読んだ時もそう思った記憶はある。でも前より春樹さんの凄さを感じれてる…ような気がする。
- こむすめ@aky_12102025年4月28日読み終わったたとえ何が起こるにせよ、まだ何も起こってないんだ。そして何かが起こったとすれば、それはもう起こってしまったことなのだ。 (「羊をめぐる冒険(上)」) 読んでもた。
- individual@individual2025年3月22日村上の大長編の多くは、主人公が「妻と離婚した」という事実から始まります。この設定を使用する目的の1つは、村上の描く非日常・非現実の「世界」へ、主人公をいざなうためだと思います。村上の作品の主人公は、社会に対して適応力があり、その社会と一定の距離を置いている方が多いです。したがって、非日常・非現実の「世界」へ主人公に入ってもらうためには、その主人公の「内在性」(心身)の変化ではなく、「外在性」(事象)の変化を原因とする必要があります。 ちなみに、主人公が非日常・非現実の「世界」での「冒険」のさいに、「内在性」(心身)の原因により、その「世界」に居る(もしくは居た)方々が登場します。『羊をめぐる冒険』では、「羊博士」、「鼠」、「先生」が該当します。この3人は非日常・非現実の「世界」の象徴である“羊”を、違うベクトルで使用しています。「羊博士」と「鼠」は、“羊”を“美”として使用し、「先生」と「秘書」は、“羊”を“悪魔”として利用しています。“美”と“悪魔”は、根が同じ“羊”から派生しているので、両者は表裏一体の関係です。
- mkaizyuu@waita2562025年3月9日読み終わった「海のことはもう忘れよう。そんなものはとっくの昔に消えてしまったのだ。」 いつも多くのものを失っていると感じている「僕」は、ついに「海」をも失った。また、故郷の海が埋め立てられている事実を踏まえて海=故郷を失ったと感じているとも言えよう。「海は五十メートルぶんだけを残して、完全に抹殺されていた。」しかし、三部作で一貫して「失い続けた」僕の作中の結末、そして描かれない未来について考える際に「海」は重要な役割を果たしている。 まず、「僕」の本作における思考的方向性について語ろう。「ひきのばされた袋小路」にあって妻と別れ、相変わらず「貯金を食いつぶすように」不幸な時間感覚の中で生きている「僕」だが、妻との絶望的な別れから一月ちょっとで極めて唐突に「耳」持ちの彼女と出会う。その気の変わりようにも驚くが、いよいよ彼女との「羊をめぐる冒険」が始まってからはそれに関する思考・出来事がほとんどで、前作で常に「僕」を苛んできた陰鬱な過去と未来への憂い は鳴りを顰める。しかし、その冒険の最中、「僕」の心の拠り所となっていた「耳」持ちの彼女はあっさりと姿を消し、かつて同質の悩みを抱えていた「鼠」は生きることを諦める選択をする。一方で最終的な「僕」の選択、決断、展望については明確ではない。しかし、本作が「歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた。」で締めくくられていることからは一定の明確性を読み取ることができる。つまり、失ったはずの「海」を再び描くことで、失われたものとの再会、新たな出会い、そして出発を表現している。これは何かを失ってばかりだった「僕」にとっては満足すぎるほどの結末と言えるだろう。そしてこれこそが私が村上春樹を好きな理由でもある。