明るい部屋新装
37件の記録
それぞれのカルピス@tbttmy2025年10月12日読み終わった絶対的な主観性は、ただ沈黙の状態、沈黙の努力によってしか到達されない(目を閉じることは、沈黙のなかで映像に語らせることである)。p.67 […]永久に失われてしまうのは、宝のような愛である、と。なにしろ私がいなくなれば、もはや誰もそれについて証言することはできないからである。そのあとには、もはやただ無関心な「自然」しか残らないであろう。それはまことに痛切な、まことに耐えがたい別離の悲しみであるから、ミシュレはただ一人、彼の世紀の人々に反対して、「歴史」とは「愛の抗議」であると考えたのである。単に生を後代に伝えるだけでなく、いまや古めかしくなってしまった用語を用いて彼が呼んでいたところの、「善」や「正義」や「統一性」などを伝えるものとしたのである。p.117
いるかれもん@reads-dolphin2025年8月26日読み終わったまた読みたい学び!ちょっと前から気になっていて読んだけれど難しかった。。。 もう少し落ち着いて読み直したい。 ただ、部分部分とても納得がいく記述があって、特に写真の本質として提示された「それは=かつて=あった」ということはかなり強固な考えだと思うし、そうした強固な考えを丁寧に見出していくという展開は私が好きなタイプの本。わかっていないかもしれないけれど。写真論と現象学を学んでから再挑戦したい。

- 勝村巌@katsumura2025年8月13日現代のフランスを代表する記号学者、哲学者による写真論。写真論と言っても写真表現のあり方などを論じているのではなく、ある特定の時間、特定の風景や人物を捉えた写真という現象をエクリチュール的に記号として読み解くというアプローチ。 写真に写された情景が、撮影者の意図などを超えて、単に物質としては過去の定着という意味の死を代弁する、という切り口から、具体的な表層“見えているもの)をストディウム、そこから見る人が感じ取るプンクトゥムという二つの概念を分けて考えていく。 プンクトゥムというのは、ベンヤミンの言うアウラのようなものだと思う。写真から鑑賞者が個人的に感じ取る何らかの郷愁などの感情的な享受のようなもので、それは写真が時間の中で演劇的に持ちうるもの、というような解釈なようだ。 ここはなるほどと思う。僕などは置いてきたものが多いので学生時代の写真などあえてみたいとは思わないが、それはつまり自分が感じ取るであろうプンクトゥムに煩わしさを感じているからなのかもしれない。 写真撮ったり、それを見返したりするときに心に発生する感情を丁寧に改題している本。写真というものは本当に面白い発明だと感じる。


leafwind@leafwind2025年5月13日まだ読んでる@ 自宅繼續讀《明室》 「我絕不能否認攝影的情況是有個東西曾在那兒,且已包含兩個相結的立場:真實與過去。而既然這樣的制約條件僅存在於攝影,經由歸納得知,應該將其視為攝影的本質,攝影的所思。(也就是「此曾在」)— 32 「此刻我所看見的,曾在那兒,伸展在那介於無限與主體之間的地方;它曾在那兒,旋即又分離;它曾經在場,絕對不容質疑,卻又已延遲異化。」— 32 我在想,當時二十世紀的攝影,拍出來的照片幾乎都是紀實,不像二十一世紀的我們,攝影在主流人群中的概念已經演化為後製為王,人們普遍更推崇技法,像是讓兩張照片重曝的夢幻、消去路人痕跡的魔法、用晶片計算後把背景虛化掉的「人像模式」、又或是把不鮮艷的花變得像鮮血一般紅。 如果羅蘭·巴特看到現代「攝影」不只是「為照相版上色」,而是全面性地對「此曾在」的光線做出上帝等級的任意調整,他大概會覺得這些已經不是攝影,而是繪畫了,但或許再過幾年,連他的想法都無關緊要,攝影的「此曾在」終有一天會從大眾眼中消逝死亡。
TOIVE@toivebooks2025年5月7日── 私が失ったものは、一個の「形象」ではなく、一個の人間だからである。いや、一個の人間ではなく、一個の特質だからである。必要不可欠なものではなく、かけがえのないものだからである。

RIYO BOOKS@riyo_books2021年9月12日読み終わった映画は人為的に狂気をよそおい、狂気の文化的記号を提示することはできるが、その本性からして(その映像の本質規定からして)、決して狂気となることはない。




























