デリダ 脱構築と正義
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くりーむ@cream2026年1月28日読んでる2章をよみました。なかなか難しいです……。 ちょっと私の理解をまとめてみようとおもいます: まず、著者によれば、デリダは形而上学というものを、「概念を分割ししかも一方を優位に、もう一方を劣位に序していく」システム、或いはそういった欲望の体系とみています。 このような形而上学は、いくつかの特徴付け (ここでは典型的な現れ方) をもちます: 1. ロゴス中心主義 ... 論理性・概念性を重視する考え方であり、それはパロールかどうかに結びつく 2. 音声中心主義 ... 文字に対する声の優位(私には、ロゴス中心主義のひとつの実現・手段であるようにみえる) 3. 現前の形而上学 .. あるものが現前的であるかどうかによって優劣をつける考え方(当然、なにが現前的であるかどうかの意味内容は時代によって変わるが、その基本的発想は同じとされる) 4. 存在 - 神 - 目的論 ... 現前性の強度による体系(つまり神が最強に現前的であり、そこへ向かう(目的とする)ものをよしとする考え方) 5. 男根中心主義 .. 4 において神 = 父としたとき、それとの距離で優劣をつける考え方(父と近いか否かは、男らしいか、という言葉で屡々表明される) 以上の典型的な現れ方は、互いが互いを根拠付け合うようになっています。 デリダはこのような形而上学を批判します。その論拠は、「差延」という不可避的な一種の運動におかれます。差延とは、純粋な自己(だとおもわれているもの) = 優位に置かれるものには、つねにすでに、他者 = 劣位に置かれるものが入り込んでおり、決定不能な差異が絶えず生み出し続けられている、という運動・生み出(うみで)のダイナミズムのことです。 これによって、純粋性 = 疑いようもなく・いま・ここにあること = 現前性は決して実現し得ないものになる、というのがデリダの言わんとすることです。 以上が私がまとめた2章の議論です。 つねにすでに他者が入り込んできている、ということについては比較的丁寧かつ具体的に議論がなされているようにおもいます。 また、つねにすでに入り込んでいるのとは異なる、第3項というべきコーラについても注意が払われています。
小池陽慈@koike_yoji2025年10月10日読み終わった今から約三十年前、初めて「脱構築」という名前を知ったとき、手にした入門書には、「脱構築なんてか〜んた〜ん! 要は二項対立崩しだよ!」みたいなことが書いてあった。そのときは、ふんふんなるほど、と頷いた。 けれども、その後、岡真理『記憶/物語』(岩波書店)に感化され、僕は「要は二項対立崩しだよ!」に違和感を覚え始めた。この一冊を、「岡は、どうやら自らの思索に、デリダの差延という考え方を応用しているようだ。しかも、その軌跡は、他者をめぐる、極めて倫理的なものである」と読んだ僕にとって、もはや「脱構築」は、恐ろしいほどにストイックな倫理的実践としか思えなかったのだ。そうしてその後、「脱構築」に関わる本や文章を読んでいくなかで、僕のそうした思いは、より強いものとなっていく。 高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』(講談社)を読み終えた今、その思いは、いっそう堅固なものとなった。本書との出合いは、僕の残された人生の時間にとって、破格の意味を持つことになるだろう。





- DaDa@tub2025年9月15日再読中前回読んだ「声の文化と文字の文化」からジャック・デリダの著作を読む為に再読。 以前読んだ時よりも、声の文化、構造主義や記号学の知見を踏まえて読んでいるからか、デリダの言わんとしている事の理解が進む。











