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小池陽慈
小池陽慈
小池陽慈
@koike_yoji
執筆業・予備校講師・放送大学大学院博士後期課程1年。アイヌ語の学び直しを始めました。著書に『14歳からの文章術』『"深読み"の技法』(笠間書院)、『評論文読書案内』(晶文社)、『現代評論キーワード講義』『マンガ森の彷徨いかた』(三省堂)、『ぼっち現代文』(河出書房新社)、編著『つながる読書』(筑摩書房)、他、多数。
  • 2025年10月11日
    フェミニズムってなんですか? (文春新書)
    信頼する方に勧めてもらい、読み始めた。 まさかフェミニズムの入門書で、カート・コバーンの名前を目にするとは思わなかった。
  • 2025年10月10日
    デリダ 脱構築と正義
    今から約三十年前、初めて「脱構築」という名前を知ったとき、手にした入門書には、「脱構築なんてか〜んた〜ん! 要は二項対立崩しだよ!」みたいなことが書いてあった。そのときは、ふんふんなるほど、と頷いた。 けれども、その後、岡真理『記憶/物語』(岩波書店)に感化され、僕は「要は二項対立崩しだよ!」に違和感を覚え始めた。この一冊を、「岡は、どうやら自らの思索に、デリダの差延という考え方を応用しているようだ。しかも、その軌跡は、他者をめぐる、極めて倫理的なものである」と読んだ僕にとって、もはや「脱構築」は、恐ろしいほどにストイックな倫理的実践としか思えなかったのだ。そうしてその後、「脱構築」に関わる本や文章を読んでいくなかで、僕のそうした思いは、より強いものとなっていく。 高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』(講談社)を読み終えた今、その思いは、いっそう堅固なものとなった。本書との出合いは、僕の残された人生の時間にとって、破格の意味を持つことになるだろう。
  • 2025年9月10日
    アイヌ語広文典
    pp. 214-221まで。名詞の区分、普通名詞の「概念形/所属形」。「名詞1の名詞2」という所有の構文において、名詞2の名詞1に対する関係(譲渡可能か不可能か)で名詞1に概念形がくるか所属形がくるかが決まる…ということは理解していたが、譲渡不可能(→所属形をとる)な関係の区分としての、「全体に対する部分の関係」、「原料に対する製品の関係」というあり方は、初めて意識化できた。「全体に対する部分の関係」は、日本語で言うなら、例えば「刀の鞘」。「原料に対する製品の関係」は、例えば「レンガの家」。
  • 2025年9月10日
    手の倫理
    手の倫理
    再読を終えた。 やはり、名著。 身体をめぐる哲学的な思索を学んでいくうえでの格好の入門書(+α)として、今後も読み継がれていくだろう。 著者はその用語を一切使っていないけれど、私のイメージする「脱構築」というものは、まさに、本書の述べる全体的内容・展開そのものである。 触覚というものを契機に、自他の複雑な相互嵌入、意図されたメッセージと意図されぬメッセージとの解くことのできない絡み合いを見出すこと。そうした脱構築的な介入によって境界や個我を揺さぶり、そこに、他者への開かれを、あるいは自でも他でもない領域を生成していく。 何より素晴らしいのは、そうしたテーマを、観念論ではなく、著者や著者と繋がる人々たちの具体的な実践、その報告を通じて、きわめてリアルに物質的に体感させてくれることだ。わかりやすく言えば、具体例の「なるほど!」感がものすごい。爽快ですらある。 私の読解力が上がれば、もっともっと味わえる一冊なのだろうなぁ。 また、数年後に、再々読すると思う。 そのとき、どう読み返せるのかが、今から本当に楽しみだ。
  • 2025年9月9日
    アイムホーム
    アイムホーム
    少しずつ読み進めているのでまだ序盤なのだけれど、もう完全に心を鷲掴みにされている。向坂くじらの新しい詩集『アイムホーム』(百万年書房)、すごい。
  • 2025年9月3日
    どこかの遠い友に
    どこかの遠い友に
    読了。 流れゆく時の一刹那を、静止画として結晶させる──そんな超絶技巧。 あるいは、文字を介した世界の破壊と再創造。 今はまだ、読みながら感じたことが、頭の中で錯綜している状態。 もう少し腑に落とし込んでから、レビューをnoteにまとめようと思う。 私は、少年の「ペニス」を、こんなにも美的な形象へと昇華した芸術を知らない。
  • 2025年8月26日
    ペリリュー ―外伝― 4 ペリリュー ─楽園のゲルニカ─ (ヤングアニマルコミックス)
    この『外伝』の4巻で、『ペリリュー』は完結ということらしい。 本巻を読み終えたとき、しばらく涙が止まらなかった。 このマンガは、必ず、世代を超えて手渡していかなければならない。 そのためには、読む者としての私もまた、読む者としての責任を果たしたい。 それは、本作を読み、思ったこと、考えたことを、言葉にするということだ。 だから、もう一度、1巻から読み返す。 真剣に、誠実に、読み返す。
  • 2025年8月26日
    どこかの遠い友に
    どこかの遠い友に
    ひとまず、詩はすべて読み終えた。 一人の詩の読み手として、とても貴重な時間を過ごすことができた。 良質の詩は、誰がいつ詠んだものであっても、綴られる言葉、組み立てられる言葉に緊張が漲っている。 この緊張を追体験することこそ、僕が詩を読む目的である。 その目的は、存分に果たせた。 極上の経験であった。 必ず、感想をまとめたいと思う。 ただし、その前に、「解説」も読む。 編者がこれら詩群をどう受け止めるのか、それを知ることが楽しみで仕方ない。
  • 2025年8月22日
    手の倫理
    手の倫理
    身体、ケア、倫理。 主客二元論への揺さぶり。 たくさんの高校生に紹介したいこの名著を、たくさんの高校生に紹介できるようにするためにも、再読する。前回よりも丁寧に読み進めるつもり。
  • 2025年8月22日
    寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
    いま企画が進行中の本の執筆準備として再読。 良心的な入門書だと思うが、僕は、こうした"入門書"に臨むための更なる入門書の必要性をひしひしと感じている。それを、僕が書く。
  • 2025年8月17日
    石垣りん詩集 表札
    旧版の『表札など』(童話屋)で読み返しているのだが、そちらがReadsには登録されていないようなので、同じ童話屋のこちら『石垣りん詩集 表札』で。 いやー……やっぱハンパないですわ、石垣りん……ほんっとに、すごい。とりわけ、「崖」という詩に──「戦争の終り」に「サイパン島の崖の上」から「身を投げた女たち」を詠んだこの詩に、脳を鷲掴みにされた。 もう、僕の脳は、この詩に刻まれた言葉から一生逃れられないだろう。
  • 2025年8月16日
    表現を味わうための日本語文法
    名著、復刊! しかも、版元サイトの紹介文によれば、「新たに二つの補説を加えた増補決定版」とのこと。 嬉しい♪───O(≧∇≦)O────♪
  • 2025年8月15日
    学校の「男性性」を問う
    学校の「男性性」を問う
    まず、菅野真文の論考「トラブルとしての異性装」を読んだ。 著者は、「男性として生きてき」て、「異性装」で授業をすることを実践する高校教諭である。 いずれnoteか何かで感想や考えたことをまとめたい。 今日のところは、一つだけ、言葉にしておく。 曰く、「この論考は、公教育か教育産業かを問わず、およそ生徒と時間を共にするすべての大人たちが読むべきものである」、と。 大袈裟ではなく、心の芯からそう思う。
  • 2025年8月15日
    どこかの遠い友に
    どこかの遠い友に
    毎日、少しずつ読み進めているこの詩集、今日は、「乾燥期」という詩(p. 114-117)の最終連、   私の日記には   いつも、   エゴの傍線が   引かれているのです。 が、心にぐいぐいと食い込んできた。 「エゴの傍線」…! 「エゴ」も「傍線」も、あるいは「傍線が/引かれている」という主述の組み合わせも、何一つ珍しくも新鮮味もない当たり前の言葉、表現なのに、「エゴの」が「傍線」を修飾した途端に、とんでもない存在感を放つ詩語になる。これぞ、異化。 試しに、「エゴの」を取って読んでみてください。「エゴの」という表現がどれほどに凄いものなのか、「おお…!」と腑に落ちるはずです。
  • 2025年8月13日
    どこかの遠い友に
    どこかの遠い友に
    「交媒」という詩がすごい(p. 100−102)。この一篇に出合えただけでも、この詩集を買ってよかった。いや、これは、本当にすごい…半分くらいまで読み進めたけど、今のところはこの詩がいちばんビビった。
  • 2025年8月13日
    どこかの遠い友に
    どこかの遠い友に
    今日は「盲導鈴」までを読んだ。この「盲導鈴」、船城の詩としては"わかりやすい"。しかし、よくよく読んでみると、構成の緻密さにおののく。石垣りんの「シジミ」を初めて読んだときに似た印象を受ける。そしてたぶん、全盲の詩人、香山末子をこのところ読んできたことも、この詩に立ち止まってしまう、大きな理由の一つだと思う。文学は、文学と出合う。他ならぬ、この私という場において。
  • 2025年8月13日
    ソシュールの思想
    約四半世紀前に、卒業論文の執筆でお世話になった一冊、丸山圭三郎『ソシュールの思想』(岩波書店)を紐解く。 私は、いま、ポスト構造主義の雰囲気を高校生でもふわ〜んとイメージできるような参考書を書きたいと企図している。 だから、丸山をもう一度読み直そうと思った。 丸山は、この本で、ソシュールをポスト構造主義的に読み直そうとしているのだ。 そして、あらためて丸山の"説明力"の頭抜けた高さに驚いている。 こんなに難しいことを、こんなに明晰に記述することができる人は、滅多にいるもんじゃない。
  • 2025年8月12日
    春駒~吉原花魁残酷日記~(1)
    全3巻を一気読みした……というか、途中で閉じることができなかった。大正期の吉原を舞台に、一人の花魁が「春駒」から「森光子」へと生まれ直す物語……いや、「物語」ではなく、実際の「日記」に基づくアダプテーションである。恥ずかしながら、私は、森光子という書き手がいたことも、柳原白蓮という歌人の名も知らなかった。知ることができてよかった。「書く」ということの意味、「読む」ということの意味、そして「文学」というものの意味について、あらためて考えることができた。かつ、アダプテーションという創造行為の可能性についても。このマンガとの出合いは、私にとって大きなものがある。
  • 2025年8月12日
    私とは何かーー「個人」から「分人」へ
    いま企画を練っている本の執筆準備として、もう一度読み返してみようと紐解く。以前も思っていたが、この本は、現代思想的なものの考え(関係論的な思考、脱構築的な観点、同一性への懐疑)をイメージとしてつかむうえで、かなり良質な入門書なのではないか。
  • 2025年8月12日
    現代思想入門 (講談社現代新書)
    初読の段階でかなり苦戦した「ポスト・ポストモダン」のところ、少しイメージできるようになった。とくにメイヤスーについて。やはり再読は大切。あと、何度も言うが、本当に誠実な本。本書を手に取る読者のほうをきちんと見ている。とりわけ、最後の「現代思想の読み方」講座のようなコーナーが素晴らしい。一冊の本として書いてほしい。
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