シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー

13件の記録
ジクロロ@jirowcrew2026年7月19日読んでる実際に労働している人々から苦しみを取り除こうとするだけでは不充分である。実際に労働している人々の歓びを欲しなければならない。この歓びは、労働の対価としての快楽ではなく、貧しさの精神を侵すことのない、無償の歓びである。労働者の生活すべてを満たすべき超自然的な詩もまた、純粋な状態に、時には光り輝く祭りのうちに、集約されねばならない。歩く人を励ますために一里塚があるように、祭りもまた、労働者の生活に不可欠である。 …… 労働者のあいだで最上のものは、労働者の生活それ自体において、芸術家が自分の芸術を介して間接的に探究する充益を手にしうるようにしなければならない。人間の召命が苦しみを通して純粋な歓びに到達することであるならば、実際に労働している人は、他の誰よりも、もっとも現実的な仕方で、その召命を果たすようになっている。 (『奴隷的ではない労働の第一条件』) 「労働の苦しみ」をヴェイユという人が語ると、聞き手にはそれが崇高なもののように思えてくる。 ヴェイユの中では、労働とは、宗教であり、芸術と見境のない概念であるのかもしれない。むしろ、「労働」という穢され尽くした記号から、人々を解放すべく、あえてそのように語っているのかもしれない。 歓び、祭り、召命。 「労働とは」を語る場が与えられたとき、果たしてそんな言葉が頭に思いつく人が、ヴェイユ以外にいるのか。そこにヴェイユの語りの凄さと、それに説得力を与える彼女の生き様の壮絶さを思う。 一見、ヴェイユの語りはただの綺麗事にも見えかねないが、それでもその語りのなかに光や希望のようなものが耀うている印象は否定できない。 読んでいて、内側からの「蠢き」を感じるヴェイユにしかできないであろう語り。





ジクロロ@jirowcrew2026年1月18日読み終わった「人間が集団的なものから逃れうるのは、人格的なものを超え出て非人格的なもののうちに入り込む場合のみである。このとき、その人のうちに何かがある。それは、その人の魂のかけらであり、それに対していかなる集団的なものも影響を及ほしえない。非人格的な善のうちに根づくならば、すなわち、非人格的な善からあるエネルギーを汲み取ることができるようになるならば、その人は、その責務を考えるたびに、他のいかなる支えもなく、どんな集団的なものに対しても、微小だが現実的な力を確実に行使しうる状態にある。」 (『人格と聖なるもの』p.327) 集団に属するということは、外部を創り出すことにつながる。 だから、救済の対象も限定することになる。 「ともかく、具体的に、近々ありうることとして、自分が教会に入ってゆく行為を思い描くとき、信仰をもたない大勢の不幸な人々から離れてしまうと考える以上に、わたしを苦しめるものはありません。人間のあいだで、異なる人間の環境のあいだで過ごすことを、わたしは本質的に必要としており、それを召命といってよいと思っております。それは、その人たちに紛れ、同じ色彩を纏い、少なくとも意識がそれに反しないかぎり、その人たちのあいだで消え去ることによってです。」 (『神を待ちのぞむ』手紙Ⅰ p.75) ヴェイユは、教会の閾を跨ぐことを拒絶する。 彼女には、集団的なもののおそろしさが本能的にわかっていた。その限定性と、人格的なもの(個性)の要請により、全体主義や誤った民主主義が罷り通ってしまう政治体制を。そして無自覚な宗教の行く末を。 自分には、集団的なもののほんとうのおそろしさを分かっていなかった。 彼女が言葉にしてくれたからこそ、解消されるもどかしさや、ただくふずり続けていただけの不安がたくさん見つかる。 読むことによる浄化作用が。






















