惑う星

7件の記録
- DN/HP@DN_HP2025年9月11日かつて読んだ冒頭からはじまる父親が息子と自然のなかで過ごすシーンを読んでいて、幼い頃に父と川や山で過ごした日々のことを思い出した。あの日々で彼も、この小説に書かれているように息子のことを考えたり想ったりしていたのだろうか。 当時はそんなことは考えてもいなかった気がするし、今もそうすることしか出来ないけれど、あの日々での彼の考えや想いを想像してみたいと思った。少し泣きたいとも思った。 もう会うことの出来ない人とのコミニケーションについて最近考えることがある。コミニケーションの基本、あるいは本質が相手のことを想像することだとしたら、それも可能なのではないか。 冒頭で考えたそんなことは、その後の読書中も少し頭の隅にあったのだけれど、最後の数十頁でまた考え始めることになる。誰かを喪うこと、独りになることでそうせざる得ない、あるいは本質が顕になった、ような気がしたコミニケーションのかたち。 小説のなかでそれをある意味で可能にするのはサイエンス、テクノロジーなのだけれど、やはりそれは想い、想像することでも可能になることなのでは、とも思う。 とても悲しくて切ない物語の終わりには、それでも幸福の兆しがあった。誰かを想うこと、真摯に想像することがコミニケーションになった先に訪れる、感じるかもしれない幸福。 人と人に限らず、それを含めた世界に対峙するとき、その間に障害があるとき、折り合いがつかないとき、そこで必要なのもののひとつは、想像することなのだと思う。そこにある想像を「読んだり考えたり出来る」ようにするのが、小説、というような気もするし、それは確かに想像を促し助けてくれることがある。 この小説もそうだった。また、もう会えない人たちのことを想う。彼女、彼らとの間にあった、今もあるはずのものを想像する。まだ続いていると思う。