星に仄めかされて

17件の記録
- ieica@ieica2025年5月18日感想とにかく登場人物がおしゃべり。 なので文章を読むというよりも、舞台を観ているようだった。 最後の病院のシーンも、私の貧弱な想像力ではあのシーンの素晴らしさを1パーセントも再現できてない。 みんな船で何処へ辿り着くのだろう。
- ieica@ieica2025年5月16日読んでるP182 言葉を口にすれば、必ず誰かを傷つける。絶対に傷つけないように細心の注意を払って遠回しな言い方をすれば、誰を傷つけないために何を口にしないようにしているのかが逆にはっきり輪郭をあらわす。 日本人(多分)が「空気を読む」とはどういうことかの説明が秀逸。 空気を読めないと「仲間はずれにされてひきこもる」か「政治家として出世する」どちらかを選ぶ。 確かに。
- ieica@ieica2025年5月15日読んでるP164 まっすぐ前に進もうとすると障害物にぶつかる。だから右斜め前に進んでそれから左斜め前に進む。(中略)直進するのは落ちていく星くらいだろう。僕たちは落ちていくわけじゃないのだから、ためらわずに蛇行しようよ。
- 中根龍一郎@ryo_nakane2025年4月21日読み終わったたくさんの一人称で書かれた群像劇はしばしば、語り手を交代させることで、得体の知れない他者の行為の動機や必然性を明るみに出す。あるいは前の場面ではその必然性がわかっていたなんらかの行為を、他者の目を通じて不気味なものとして描き直す。そして謎を解き明かすにせよ、自明さを不思議さに差し戻すにせよ、そこには、視点さえ変われば謎が解かれうるという前提がある。他者というのは個別の、しかしよく似た自意識を持っていて、われわれ読者は服を着替えるようにそれぞれの視点を行き交い、それぞれの意識に乗り移ることができ、そこにおいて、他者という謎はコミュニケーションの失敗によって起こっているという前提がある。 前巻まではこの小説もそういうふうに進んでいた。謎は次の語り手によって無化され、誤解はほぐされ、行為を動機づける一貫した個人史が補強されていった。でも『星に仄めかされて』では、解決されない謎が次々に出てくる。固有名を持った、Hirukoたちの旅を助けるたくさんの人々が出てきて、それぞれにおそらくなにか事情や作為を持っている。中には物語全体の背景にある大きな存在との接点をにおわせるものもある。しかし彼ら彼女らに語り手のバトンが渡されることはない。謎は取り残される。 のみならず、最終的には語り手が説明をやめてしまう。自分は何者で、どういう経緯で何をしているのかという自己紹介を欠かさなかった『地球にちりばめられて』の行儀の良さはもうない。動機の説明なしに、目の前の状況に反応し、応戦し、場を支配しようとして、話の流れを支配しきれず、単に失敗する。その失敗は複数の他者によるコミュニケーションがきわめて流動的だったことによる。言葉も他者も謎のままにとどまり、コントロール不能になり、次の大きな謎とともに物語は終わる、というか、次巻に続いていく。そこでは登場人物が読者に対して説明する、一人称小説という視点におけるコミュニケーションが挫折している。 にもかかわらず、Susanooもムンンも魅力的だ。彼らはこの小説の語り手の語り方に対して、あまりにも少なく語る(それはほかの語り手に比べてあまりに多くを語っていた『地球にちりばめられて』のSusanooと対照的だ)。ふたりとも読者が必要としている言葉を手渡さない。しかし、本来だれかがだれかに手渡す言葉は、受け取り手の欲望によってではなく、送り手の欲望によって定まるはずだ。きわめて少なく語るSusanooが、謎を無化するなにか決定的な発話をなすことを期待して、欲望して、聞き取ろうとして小説を読んでいた私は、実は私自身が小説という装置への期待から、Susanooの欲望を無化していたことに気づかされる。というよりも、語り手の語ろうとする内容と聞き手の聞こうとする内容が奇妙に一致する、小説特有の共犯者的な場所に、無批判に立っていたことに気づかされる。それはとても居心地の悪い場所だ。でも他者というのは往々にして居心地の悪いものだ。その不明さや秘密さ抜きに、他者とコミュニケーションをとることはできない。 HirukoとSusanooが対話をすることで果たされるはずだった物語は、なぜか終わらず、旅に出ることになる。それは表向きは、旅の次の目的地ができたということになる。でも実のところ、重要なのは旅ではないのかもしれない。旅というよりも、旅によって対話が続くということが重要なのかもしれない。対話というのはもちろん、だれかと対話をすることによって完結するものではない。話は次の話を導き、コミュニケーションの挫折はコミュニケーションの成立を夢見て、話すことがなくなったはずの場所に話すことが生まれる。そしてそこには複数の人間を横断するいくつかの言語がある。話すことを目指した旅が、旅しながら話すことに変わる。であるなら、小説はもう他者という謎が解かれることを求めない。他者と他者とのあいだにある通交が、その謎が、居心地の悪さが、そもそも小説になるからだ。他者は仄めかしにとどまる。そして仄めかしを共有するために、複数の人生が、仮にひとつの目的をともにする。そのときもう、目的もドラマツルギーもさして重要ではないのだろう。複数性が交差するための仮の通路として、彼らには物語があることになる。