ムーミンパパ海へいく [新版]
10件の記録
ジクロロ@jirowcrew2025年12月26日買った読んでる八月末のある日の午後、ムーミンパパがしょんぼりと、庭を歩きまわっていました。なにをしたらいいか、わからなかったのです。なにしろ、しなければいけないことは、自分かほかのものかが、もうすっかりやってしまったように思えましたもの。 ムーミンパパは、悲しそうにしっぽをかわいた地面にひきずりながら、あてもなく庭をぶらつきました。ムーミン谷は、焼けつくような暑さで、なにもかもひっそりとして、しかもかなりほこりっぽかったのです。この八月は山火事がおきるおそれがあり、おおいに気をつけなければならないのです。 (第1章 水晶玉の中の家族 冒頭) 「もうすっかり」、「なにもかも」 何かの終わりは、何かのはじまりのフラグ。 終わりとは均質、はじまりとは流出。


ジクロロ@jirowcrew2025年12月19日ちょっと開いた「きみがわかっていないことがひとつある。きみはこの島の面倒をみるべきなんだ。自分はえらいんだぞと威張りちらすかわりに、この島を守り、慰めてやるべきなんだよ。わかるかい? …… きみはわたしたちにもおなじようなことをした。あらゆる手をつかっていじめてくれたが、そうはうまくいかないさ。わたしたちは切りぬけてきたからね。わたしはきみを理解しようとしたが、きみにはそれが気に食わなかった。それでも、わたしたちはともかくこの島で生きてきたのさ、そうじゃないかね?(…••)わたしがこんなことを言うのも、ただ、そうだな、まあ、きみが好きだからさ。」 「きみ」とは海のこと。 ムーミンパパは海に語りかける。 敵ではなく仲間として。 仲間と認めることは、自分の一部として。 ムーミンパパは海を受け入れる。 そもそもムーミンパパが 「海」として語りかけるその対象は、 ムーミンパパ自身のうちに潜む パパ自身が最も恐れている性質を 外部化したもの。 「島」は海に浮かんでいるのではない。 それは海の下に根を張っている。 「島」として海の上に現れているのはごく一部。 外から押し寄せてくる言葉と、 それによる思考により翻弄され続けるより他に 存在しえない自我。 「海」とは「パパ(父親)」という肩書きに まとわりつく、造られた理想像。 「島」とは、パパという肩書き以前(名辞以前)の 自然体の姿。生来の気質。 「海」が「島」を襲うのは、 「パパ(父親)」という像の理想的気質として、 家族に「権威」を振る舞うべき存在として ムーミンパパのうちに巣食ってしまったから ではないか。 それでは、「パパの和解」とは…… それは読者自身でお考えください、 ということか。 「パパ」とは、理解するものではなく 受け入れるべき、愛すべきものであるということ。 問いの中にすでに答えがあるやつ。



mio@y_________io2025年9月15日読み終わった8冊目🌊 ムーミンパパの姿に、私の父を重ねた1冊だったなぁ。私の父はハリウッド映画の父親像が好きなのもあって、「俺に着いてこい」タイプではなく「俺に守られてろ」タイプで、その点では欧米的な父親だったのかもしれない。 同じような作業の繰り返しになりがちな毎日に変化をつけることの重要性を痛感した。ムーミンママが一時期壁に絵を描き続けたように、何か熱中できるものがあると毎日生きるのにハリが出る。












