文學界 2025年 10月号

8件の記録
- it_shine@it_shine2025年9月24日読んでる『文學界2025年10月号』pp34-35 「痛みの一回性を取り戻す」川上未映子×頭木弘樹 ミヒャエル・エンデが『エンデのラスト・トーク』で、次のように言っていました。「ユーモアとはおふざけではないし、おふざけや陽気さの差の一種でもない、ユーモアとは一つの世界観なのだ」。人はかならず失敗するし挫折する。致命的な困難に必ず直面する。病はもちろん、死に別れもそのような困難ですね。そしてエンデは、ユーモアとはその状況に向き合う姿勢のことなんだと言うんです。ユーモアというのが、どちらに転ぶかわからない状態にいるときに、どうあれるかという姿勢のことであるとすれば、何らかのユーモアにふれたり学んだりするために、もしかしたら文学が必要なのかもと思うのですが。
- 読書猫@bookcat2025年9月21日読み終わった(本文抜粋) “頭木弘樹 綺麗な物語を必要としているのは、当事者ではなく、まだ悲惨なことになる前の人たちでしょうね。いつか自分にも何か起きるかもしれないという不安はあるので、起きても大丈夫という物語があると安心できる。だから、当事者に対して、そういう物語を紡ぐように求める。蚕に綺麗な糸を吐けと言うように。” (頭木弘樹、川上未映子「痛みの一回性を取り戻す」より) “若林正恭 最近郊外に引っ越して、2拠点生活をしてるんです。家に帰るとき、左が田んぼ、右がとうもろこし畑の道があったので、これはすごいなと思って、車を止めた。夕日が映って、風で夏の稲が黄金色に波立って、それをずっと見てたんですけど、途中で、これ何やってんのって思ったんです。これをやるって勇気がいる。そう思わせるのは、何の圧だったのかとも思うし、この対談が始まった頃よりはちょっと弱まってる気もします。“ (若林正恭、國分功一郎「ネオリベの帳を越えて」より) ”日記という表現形式は、研究上の資料的価値はもちろんだが、それ以上に、人々を惹きつけ、自分とは違う誰かの経験を「追体験」させ、触発する力を持つ。それがいくぶんかの虚構や、読まれることを前提にした演技を含んでいたとしても、「日記」という形式を備えている限り、その力は機能してしまう。“ (山本浩貴「ささやかな「本当らしさ」からこの世界そのものの「フィクション」へ」より)