チャイニーズ・タイプライター

8件の記録
- 中根龍一郎@ryo_nakane2025年7月29日読み終わった日々仕事のための連絡を打鍵する。「おつ」と打ち始めると「お疲れ様です」が予測変換にあらわれる。よろ」と打ち始めると「よろしくお願いします」があらわれる。「こち」なら「こちらで進行いたします」だし、「しょ」なら「承知いたしました」。予測変換にあらわれたらもうひとつながりの言葉を打ち切る必要はない。Tabキーを押して入力を終わらせる。業務は効率化され、メールは速くなり、文面は定型文だらけになる。 中国語タイプライターの入力効率化を大幅に推し進めたのが「頻繁に使われる熟語を構成する文字を近い場所に置く」という活字配置の実務的な改造であり、毛沢東時代の共産党当局が発する文書量の肥大化であり、そして共産党のレトリックがきわめて定番化し、語彙が限定されていったことなのだというマラニーの分析はとても面白い。 タイプライターの文字配置の法則を画数や部首といった理念的な側面から定めようとしていた理論家たちの苦労や、しかしそうしてつくられたタイプライターが実際は(初期の中国語タイプライターはキリスト教の中国語圏布教の文書作成を目的としていたため)キリスト教的語彙を構成するための文字が近接して配置されていたりする、いわば実務に「汚染」されていたことを思うと、ひとつの(非アルファベット圏の)文字が、「自分たちの文字はどのようなものであるのか」をめぐる理論と実践の引き裂かれが見えてくるようだ。理念的には、漢字はその構成要素によって秩序づけられる。しかし実務的には、それが要素として構成する文によって分布する。分布は理念によって秩序づけられるものではなく、観測によって整理されるものだ。そこには言語が「何であるか」と「いかにあるか」の緊張関係が立ち上がる。 無数の漢字を実際の空間に配置した中国語タイプライターというのは、もちろん過渡期のものであって、やがてコンピューター時代になり、中国語の入力システムはわれわれ日本人にも親しい(しかしもちろん日本語入力のものとはちがう)「変換」へと移行する。『チャイニーズ・タイプライター』はその現代的な入力システムの前史であり、コンピューター時代の入力システムについては続刊で扱うことが予告される。ちょっと気になるのは、マラニーが中国語の文字システムのうち、入力機械とは別の理念的な位相にあるものを、入力をコマンドとして再配置するシステム、つまりいわゆる「変換」のシステムについて、しばしば「リトリーブ」という表現を使うことだ。文面では「検索゠復元」と書かれ、「リトリーブ」とルビが振られる。 リトリーブという言葉を見て、一番に思い浮かぶのは、どうしてもレトリーバーだ。レトリーバーは賢い犬で、撃ち落とされた獲物や、投げられた棒やボールを、コマンド通りにとってくる。うれしそうに駆けていって得意げに戻ってくる。QWERTYキーの入力からひらがなや漢字を特定のプロトコルで出力する私たちの無茶なシステムが成り立つのは、そうした入力から私たちの求める文言を検索゠復元(リトリーブ)するレトリーバーたちがコンピューターのなかを駆けているからだ。その検索゠復元は通常の入力や変換を拡張し、やがて現在の予測変換へつながっていく。「よろ」と入力するや否や「よろしくお願いします」に飛びかかり、得意そうにくわえて戻ってくる犬。マラニーによれば、中国の代表的なIMEのひとつは「捜狗」というそうだ。 リトリーブの比喩と捜狗の関係が明示的に書かれるわけではない。でも『チャイニーズ・タイプライター』のそこここにときおり見え隠れする犬の比喩に、コンピューターを使う犬好きとして、そして子供のころレトリーバーと一緒に暮らしたものとして、なんだかしんみりしてしまうものがある。この小さな機械のなかにも犬がいる。
- 中根龍一郎@ryo_nakane2025年7月14日読んでる検索のためにハングルやタイ文字を入力することがある(といっても韓国語やタイ語がわかるわけではないけれど)。ハングルはあるていど指も慣れていてなんとなく打てるのだけど、タイ文字はキーボードビューアを見ながらでないと打てない。キーボードビューアは、シフトキーを押すと、シフト後の各キーに表示が切り替わる。そして、シフトキーを押した時のタイ文字の「シフトっぷり」にはしばしばびっくりしてしまう。タイ文字は種類が多い。 タイプライターという有限の空間にあまりにも多すぎる中国語の漢字をどう配置しうるか、という問題が『チャイニーズ・タイプライター』の出発点であり、タイ文字の話はその道すがらに少し触れられるだけだ。1892年にエドウィン・マクファーランドによって発明されたシャム語タイプライター(シャムはタイの旧称)の話が、この本の頭に少しだけ紹介される。初期のタイプライターのさまざまな姿のうち、ダブル・キーボードという84のキーによってアルファベットの大文字小文字や各種の記号を打ち分ける形式が、シャム語タイプライターに採用された。44の子音と32の母音、5つの声調、10の数字、8つの句読点を持つシャム語の表記にとって、そのキー数はどうしても必要で、のみならず、それでもなお足りなかった。 シャム語の文字体系も変わる必要があった。技術言語学的交渉にあたっては、無傷で済まされることはないのだ。エドウィンの弟のジョージの回想によれば、八四ものキーがあっても、スミス・プレミア機は「シャム語アルファベットを全て書くためには二つ足りなかった。[エドウィンは]どう頑張っても、全てのアルファベットと声調符号を機械に組み込むことはできなかった。そこで彼は非常に大胆なことをした。シャム語アルファベットから二文字を削ってしまったのだ」。そして、こう書き加えている。「〔その二文字は〕今日、完全に廃れてしまった」。 (『チャイニーズ・タイプライター』p.65) なかなか手に汗握る話だ。でも日本語の字体がJIS規格の変動に伴って被った混乱や、戸籍電子化の際の文字整理の問題、住基ネット統一文字コードが一部Unicodeと衝突している問題などなど、テクノロジー化のプロセスのなかで消えていった、ないし消えていこうとしているたくさんの文字を思えば、非アルファベット文字体系の技術的なきしみは、対岸の火事とも思えない。 少しずつ読み進めていて、今は中国語タイプライターが日中戦争によって日本製のものにシェアを奪われていくあたりに入っている。不可能と思われた中国語タイプライターは、入力できる漢字数を縮減することで可能になった。とはいえそれでもアルファベットに比べれば膨大な数のキーを、中国語のタイピストたち、日本の(つまり漢字文化圏の)タイピストたちは、身体化することによってコントロールする。訓練が膨大なキーを打つことを可能にする。それはハングルのキーボードを打ち、タイ文字のキーボードを打っているときに、次第に、どこになにがあるかを指が覚えていくプロセスに似ている。ブラインドタッチがだんだん速くなっていくときのような懐かしい修練の快感がそこにはある。