尼僧とキューピッドの弓
13件の記録
もぐもぐ羊@sleep_sheep2026年9月29日気になる白玉庵さんの投稿より。 あらすじよみにいったらとても興味ある。 多和田葉子を読まずにここまできてしまったので何から読めばいいのかわからない迷子のもぐもぐ羊はここから読めばいいかもしれない。









白玉庵@shfttg2026年9月29日気になる糸太さんの投稿で、この作品ってあんまり言及されないと思うんだけど(わたしは初めて知った)、ドイツ人女性たちに漢字で発音し難い名前をつけるというところからもう痺れてしまった。そこから「弓道」と「性愛」に至るすごい跳躍を見たい。その前に積んでる『献灯使』を読まなきゃだけども。









- 糸太@itota-tboyt52026年9月28日読み終わった登場人物の名付け方に驚いた。第一部の主人公である「わたし」は、ドイツの女性たちに次々と漢字の名前を与えていく。それらがどれも独特で、ぱっとは読めないのだ。 そのまま音読すると、一度も口にしたことのない発音になってしまうので、違和感を抱きながら物語を読まされていくことになる。でもそこは表意文字。朧げなイメージを先行させつつ、物語とともに彼女たちのキャラクターを形作っていくことができる。 これが楽しい。そもそもこの小説は、修道院に住む僧尼たちについて、主人公が距離をとりながら探っていくような筋立てになっている。初対面の人でまず分かるのは外見である。逆に言えば、それしか分からない。登場する途端に与えられていく漢字の名前は、まさに外見をビジュアルとして読み手にまず差し出してくれる役割を担っているようだ。 第二部では一転して、一人の女性の内面が丁寧に描かれる。第一部では姿を表さなかったその女性は、不在という強烈な存在感によって物語に渦を生み出す起点となっていた。 僧尼たちがそれぞれに抱く、彼女のイメージが読み手の頭には残されている。はたして彼女自身もまた、自分の意志そのものに疑問を抱き、他者が自分を規定しているという想像に悩まされていた。 ここで出会ったのが「弓道」と「性愛」だった。どちらも個人の輪郭をフィジカルからアプローチする象徴のように思えた。 体がある。他者の命とも簡単に関係しうる体は、とても無視できるものではないが、適正な社会関係を生み出すのに有用なのだろうか。ここに至って、プロテスタントを媒介にして、僧尼たちの姿が再び立ち上がってくる。 今回も多和田さんには随分楽しませていただいたなあ。まだまだ手に取りたいけれども、文庫で他にも出ているのがあると有り難いのだが…。

okabe@m_okabe2026年4月21日読み終わった前に読んだ『べつの言葉で』で著者のジュンパ・ラヒリは、複数の言語の間で葛藤を感じていた。一方で多和田葉子は、日本語とドイツ語のふたつをお手玉のようにして自由自在に遊んでいるように見える。 この違いは何だろう。人種や、人生のどのタイミングで習得するかによって、違いが出るのだろか。











