
決壊を追憶
@Vorstellung
- 1900年1月1日
ぼんやりとした不安の近代日本浜崎洋介読み終わった戦争に勝って勝って負けて「戦後民主主義」や「平和主義」等のどこにもない理念に己の身元保証を預けてしまった日本人は、それ以降自己の自然な在り方を見失ってしまった。 「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、不可解。我この恨を懐いて順悶、終に死を決するに至る(藤村操の遺書)」、「ぼんやりとした不安(芥川龍之介の遺書)」、「得体のしれない不安(梶井基次郎『檸檬』)」。依って立つ規範や共同体が薄れていく過程。ぐえー。 理想的な近代だが血肉化されていないから根本的な不安は消えなかった。自らを支える過去を失い自己喪失に陥った。社会システムは変わるが個人はぼんやりと不安を抱え続ける。それは払拭されることなく後世に引き継がれている。そら右派にもなるわ。 初めて日本史がおもろいと思った。 - 1900年1月1日
猫町萩原朔太郎読み終わった萩原朔太郎の生きた時代背景的に、「明治の文明開化を潜り、大正の教養主義を潜り、昭和のモダニズムを潜り抜けて、瀟洒な近代文明を打ち立てたかに見えた瞬間、その崩壊の予感に慄くことになる近代日本そのものの姿」ではないかという浜崎洋介の解説・考察を先に聞いて、それが面白かったので読んだ。 目の前にある和洋折衷の華美な町が、その実、地に足が着いていない虚構、一つの玻璃で構成されている、危険な毀れやすい建物でしかないと見えたとき、崩壊への予感は一気に高まり、町のあちこちから無数の猫が溢れ出して来る。我に返ると猫たちの姿は無い。華美な町も無い。 明治生まれの作家たち、しばしば時代の流れに個人が置き去りにされ、ある人は近代的理論武装に、ある人は近代的消費活動に勤しむがいずれも虚構に過ぎない、どうなっていくんだ、みたいな嘆きを書いているようにみえるな。大正はデモクラシー、昭和前期は超国家主義、昭和後期は高度経済成長とか色々共通で明確で不変(と感じる)な信仰があったようだけど、平成以降のぐにゃぐにゃ(自分探し、引きこもり、カルト宗教)を経て令和のAIに人間価値にトドメ刺されかけているわけで、夏目漱石(三四郎)の「自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。」の節に現代人が惹かれるのは無理がない。令和は明治を繰り返しているのかもしれない。 - 1900年1月1日
ダブル・バインドを超えて浅田彰読み終わった分裂症の三類型(妄想型・破瓜型・緊張型)は、矛盾したコミュニケーションへの異なる適応様式であり、それらの治療とは矛盾を消すことではなく、日常へ戻りながら相対矛盾を柔軟に往還する力を回復すること。西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一は、有と無の対立を超え、矛盾そのものを世界成立の根拠と考える点でベイトソンを哲学的に補強する。またラカンのボロメオの輪も、象徴界・想像界・現実界が相互依存する構造を示し、二元論を超える視点として扱うことができる。メルロポンティの「両義性」でも似たことを解釈できるなと思った。その中でコケットリイは、矛盾、対立、両義性、相反する態度を解消せず保持しながら新たな関係や意味を生み出す実践として位置づけられていると思う。ダブル・バインドを創造性へ転換する姿勢なんだろう。ダブル・バインドは統合失調症の原因だけでなく、人間や社会に遍在する「生成」の構造として捉え直すことができる。 - 1900年1月1日
メルロ=ポンティ・コレクションモリス・メルロー・ポンティ,モーリス・メルロ=ポンティ,中山元読み終わった - 1900年1月1日
デカルト的省察エトムント・フッサール,浜渦辰二読み終わったデカルト的な真理探求は哲学する自我へ立ち返ること、純粋な思うこと(コギタチオ)をする我へと立ち返ることに基礎づけられる。省察するものは、ただ自らのコギタチオをする純粋な我としての自分自身のみを疑えないものとして、たとえこの世界が存在しないとしても廃棄できないものとして保持している。このように還元された我が独我論的に哲学し始める。 これ対しフッサールは、他者の存在を証明するのではなく、「他者が経験の中でどのように現れるのか」を分析する態度を取った。人は他者の身体しか直接知覚できないが、その身体を自らの「生きられた身体」と重ね合わせることで、相手にも自分と同様の意識があると自然に理解する。この働きを「対化」や「感情移入」と呼び、これは推論ではなく経験そのものである。このように他者が経験されることで、世界は私だけのものではなく、複数の主体が共有する世界として現れる。この共有された世界を成立させるのが間主観性であり、その担い手である主体全体をモナド共同体という。 「外に行こうとしないで、汝自身のうちに帰れ。」 - 1900年1月1日
唯心論と唯物論 (岩波文庫 青 633-4)フォイエルバッハ,船山信一読み終わった「もし猫が見る鼠が単に猫の眼のなかに実存するにすぎず、単に猫の視神経の情動にすぎないならば、そのときには猫はいったいなぜ爪を鼠の方にのばす代わりに、むしろ自分自身の方にのばさないのか?」 もし鼠が単なる主観的表象にすぎないなら、猫は自分自身に爪を向けてもよいはずだが、そうしないのは自己保存を望み、客観の実在を必要としているからである。猫は感覚だけでなく運動器官をもち、対象に働きかけることで空虚な主観性を克服する。また猫は鼠を殺すが、すべてを滅ぼすことはなく、自己存続のために他者の存在を保つ必要がある。欲望による対象の支配は同時に依存関係の表現でもあり、人間は対象に対して支配者であると同時に従属者でもあり、感謝すべき関係にある。 的な。 - 1900年1月1日
共同存在の現象学カール・レーヴィット,熊野純彦読み終わった - 1900年1月1日
- 1900年1月1日
それから夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
彼岸過迄夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
行人夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
夢十夜夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
坊ちゃん夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
吾輩は猫である夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
三四郎夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
草枕夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
こころ夏目漱石読み終わった - 1900年1月1日
- 1900年1月1日
夏目漱石「門」伊藤治明,夏目漱石,読人舎読み終わった
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