

駄々
@inugasuki
小説、BLが好きです。
- 2025年12月23日
長い読書島田潤一郎読み終わった心を静かに穏やかに保ちながら読める1冊。それでも最後の「長い読書」を読んだあとは胸がぎゅっとなって、さまざまなことを考える時間となった。 【好きな言葉】 ・そうした時間のずっと底のほうには、昨日読んだ本の思い出がある。それは実際に経験した記憶と比べればとてもはかなく、うまく言葉にできない。うまく言葉にできないから、だれにも話さない。でも、本のタイトルと作家名ぐらいは同僚に告げることがある。 ・本はページを開いたところで、読者の意志と関係なくスタートするわけではない。それはどんなにおもいしろい物語でも同じ。本を読み進めるには、ほんの少しの意志が要る。 ・それまでは何も考えずにやり過ごせたことが、少しずつ、やり過ごせなくなってくる。毎日、なにかを不安に思う。自分の身体とこころが、次第にずれはじめているように感じる。 ・どんなに寡黙な学生でも、どんなにふざけた態度しか見せない学生でも、カラオケではみな一生懸命に歌をうたった。「夢をあきらめない」とか「あの恋を忘れない」とか、ふだんは絶対にいえないようなことも、マイクをとおしてであれば、他の学生たちに素直に伝えることができた。ぼくはカラオケでは、いつもモニターに映る歌詞を真剣に読んでいた。そこには何かしらの真実があるような気がしたし、歌の歌詞を深く読み込むことで、同級生たちのこころを深く理解できるような気がしていたからだ。 ・本屋に来ると、さまざまな欲望が次々と湧いてくる。ぼくはもっと、立派な人間になりたい。でもいまのぼくはまだ、150ページの小説に完全にお手上げなのだ。 ・21歳のぼくのなかにあったのもまた「軽蔑と憧れ」で、おそろしいことに、そこには中間というものが存在しなかった。 ・若いぼくに力を与えてくれたのは文体だ。文章ではなく、文体。知恵や経験、物語よりも先にある、作家の脈拍のようなもの。音楽でいうところの「ビート」のようなもの。 ・世の中には「規範」というものがあり、お手本とすべきような「態度」があり、「流行」のようなものがある。 ・言葉は、ぼくとだれかをつなげる。でもそれは見方を変えれば、ぼくとだれかを同じにすることでもある。 ・本を読み始めたばかりのころは、難解な語彙や、カタカナで表記されるようなあたらしい用語に強く惹かれた。 ・客観的に見れば、状況はたしかに苦しかった。でも、ぼくのこころのなかにはさまざまな作家の文体が蓄積されつつあった。それはぼくの未来に直接的なヒントも、こたえも、何一つとして与えてくれることはなかったが、すくなくとも、世界には今の社会とは別の「規範」のようなものがあることを教えてくれた。 ・自分の人生というものはそれがたった一度である限り、練習することも、理解することもかなわないということだ。ひょっとしたら、臨終の際になってようやく、「わたしの人生はこうだった」と認識し、理解できるものなのかもしれないが、そのときには誰かに伝える術がない。(⋯)それまでのぼくは人生になにかしらの意義があり、目的があって、その目的に殉じるように生きなければならないのだと思っていたからだ。 ・話すことによって初めて、たしかめられる何かがある。あるいは、発見できる何かがある。 ・大好きな恋人がいなくても、長年抱いていた夢が叶わくても、親しい人が病とたたかっていなくても、人生は続くし、毎日は続く。仕事をし、食事をし、電話で親と話し、テレビで好きな芸能人を見て、なんとなくどこかへ行きたくなって、最寄りのコンビニへ足を運ぶ。こうした日々の行為は、当人だけが知り、記憶していることで、その当人がいなくなってしまえば、だれもがそれを知る機会を失うだろう。 ・『なしくずしの死』を読んでいると、ぼくは少年のころに感じた寂しさを思い出した。なにかを伝えたいし、表現したいのだけれど、「クソ」とか「馬鹿」とか「アホ」とかしかいえない。泣きたいわけではないし、死にたいほどになにかに絶望しているわけでもない。好きなものもたくさんあるし、両親はぼくを愛してくれているし、友だちと遊ぶこともたのしい。けれど、一方で、やるせない気持ちもあって、そういう得も言われぬものといったい、どう付き合えばいいのかわからない。わからないまま、その気持ちに蓋をする。あるいは、忘れてしまう。でも、その気持は消え去ったわけではなく、ぼくのこころの奥底にずっとある。 ・人はこれから先に時間があると思うから、本を買うのであって、今後の人生において時間がないのであれば、人は本を買わない、ということだ。 ・ぼくはこの「昇揚」に覚えがある。それはぼくが顔の見えない誰かを言い負かそうとするときに決まってあらわれる、抑えられないこころの働きのようなものであり、眼の前の具体的なだれかではなく、大多数の人たちに向けてなにかを発信しようと企んでいるときにあらわれる、こころの震えのようなものである。 ・ぼくもまた、こころが沈み込むような暗い時期に、本屋さんに、図書館に救われた。そこで、自分の人生を変えるようなすばらしい物語に、運命的な言葉に出会ったというのではない。世の中にはたくさんの本があるのだ、という事実が、ぼくの暗いこころを慰めたのだ。それはつまり、世の中にはたくさんの人間がいて、たくさんの考えがあり、生き方があり、言葉があるということだ。 ・かつては、目に見え、手で触られることができるものに名前を与えることだけが、言葉であり、意味だった。けれど、年齢を重ねていくにつれ、眼の前にあるそのものよりも、「意味(概念)」のほうが優先される。信号はたしかに緑であるはずなのに、「青」であるという「意味(概念)」のほうが重んじられる。つまり、視覚より、聴覚より、触覚より、知覚のほうが先にくる。それが平均的な成長ということだ。 ・個性的あるというのはとてもつらいことだ。でも、だからこそ、その人にしか書けないものを書き、それが読者を感動させるのだ。 - 2025年12月21日
言語化するための小説思考小川哲読みたい - 2025年12月21日
「恥」に操られる私たちキャシー・オニール,西田美緒子読みたい - 2025年12月20日
緑と楯 ロングロングデイズ雪舟えま読みたい - 2025年12月20日
- 2025年12月20日
飲中八仙歌―杜甫と李白―千葉ともこ読みたい - 2025年12月17日
エレジーは流れない三浦しをん読み終わったのどかでさびれた町に暮らす男子高校生たちのお話。 全員が良いキャラをしていて、読んでいて思わずクスっとしてしまう。 大人になってしまったからこそ、高校生特有の将来に対する思いとか、漠然とした不安とか、そういうのさえも青春だって美化してしまいがちだけど、そのもやつきとか曖昧さこそが青春だよなと思った。 【以下、好きな言葉たち】 「高校の頃、なりたい職業なんてあった?」 「言われてみれば、なかった」 「本当に、子どものころは『なんにでもなれる』って思ってた?」 「全然。はずみで言ってみただけ」 刺激や「いま以上」を求めるだけの精神的余裕がなかったし、自分にできることがあるのかどうかも判然とせず、なにもかもにもあせりを感じてもやもやするばかりだ。このもやつきこそが「若さ」の実態だと言うひともいるはずだが、当然ながら若さのまっただなかにいる怜としては、自身のもやつきを丸ごと受け入れて安らぐことなどできず⋯⋯ 語彙がやや少ないがゆえに、心平はほとんどすべての感情を「楽しい」「悲しい」「腹減った」のどれかに分類する。だからこそ、例外的に放たれた「切ない」は、自身のなかに渦巻く思く思いと考えの複雑さを全力で言語化した表現なのだと察せられ、怜としては友の気持ちを受け止めたい。 こういう息苦しさからは、どこで生まれても、たとえば東京やニューヨークみたいな都会に生まれたひとであっても、逃れられないものなんだろうか。心が、つまり脳みそがあるかぎり、ここではないどこかを思い描き、けれど完全な自由を手にすることはできないものなのか。 諦めの星のもと、完璧なる調和を生きる、脳みその囚人たる俺たち。 家族をはじめとするつながりのあるひとたちを完全に振り切って逃走することはできないだろう。むなしさと慕わしさはいつだって裏表だからだ。 眼前にひとやものが複数現れると、比較してどれぐらい差があるのかつい測ろうとしてしまう心性はなんなのだろう。それぞれ比べることなどできない独立した存在なのに。 どんな事態にも動じずにすむような、知恵や腕っぷしや経済力が欲しいと思った。でも、そんな大人はどこにもいない気もした。どれだけの知恵と力とお金を手に入れても、心があるかぎり、たぶんだれしもが、ときにたじろぎ、みっともなく慌てふためき、弱気になってしまうものなのだろう。 「姿形が似ていたとしても、魂は別物よ」 迷惑のかけあいが、だれかを生かし、幸せにすることだってありえる。少なくとも、だれにも迷惑をかけまいと一人で踏ん張るよりは、ずっと気が楽なのではないかと怜には感じられた。
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