

ユースケ
@yusuke_1130
電車通勤(片道1時間)になったので本を読み始めました
- 2026年6月25日
汝、星のごとく凪良ゆう読み始めた@ 電車 - 2026年6月24日
山の音川端康成読み終わった@ 電車 - 2026年6月23日
山の音川端康成読み始めた@ 電車 - 2026年6月22日
私の居場所はここじゃない安部若菜読み終わった@ 自宅 - 2026年6月22日
私の居場所はここじゃない安部若菜読み始めた@ 電車 - 2026年6月19日
対岸の彼女角田光代読み終わった@ 電車 - 2026年6月18日
対岸の彼女角田光代読み始めた@ 電車 - 2026年6月17日
成瀬は天下を取りにいく宮島未奈読み終わった@ 電車 - 2026年6月12日
成瀬は天下を取りにいく宮島未奈読み始めた@ 電車 - 2026年6月12日
数学する身体森田真生読み終わった@ 電車 - 2026年6月10日
ひらいて綿矢りさ読み終わった@ 電車 - 2026年6月5日
生のみ生のままで 下綿矢りさ読み終わった@ 電車 - 2026年6月3日
生のみ生のままで 上綿矢りさ読み終わった@ 電車 - 2026年5月14日
JR上野駅公園口柳美里読み終わった@ 電車 - 2026年3月30日
滅ぼす 上ミシェル・ウエルベック,木内尭,野崎歓,齋藤可津子読み始めた@ 電車 - 2026年3月30日
イン・ザ・メガチャーチ朝井リョウ読み終わった@ 電車読み終わったあと、私は何も発見していなかった。 たくさん持ち帰った。でもそれは全部、朝井リョウがすでに解釈して手渡してくれたものだった。 『インザメガチャーチ』は、帯からして正直だ。「神がいないこの国で人を操るには”物語”を使うのが一番いいんですよ」——この台詞は登場人物の言葉であると同時に、この小説そのものの自白でもある。物語が人を操ると知っている作者が、物語を使って読者に届けようとしている。批評者と操作者が、ここで一致する。 読んでいるとき、私はずっと「運ばれている」感覚があった。ページをめくるたびに解釈の自由が回収されていく。登場人物たちは葛藤しているように見えて、実際には命題を運搬している。結論への最短距離を、人物の形をして歩いている。そう気づいた瞬間、私の中で小説が終わった。物語は続いているのに。 これは朝井リョウへの悪口ではない。構造の話だ。「社会を批評する誠実な作家」という役割を完璧に果たそうとするとき、小説の形式は骨格だけ残して中身が別のものに替わっていく。批評的であることが目的化した文学が必然的に到達する場所に、この小説はある。 同時代の村田沙耶香と並べると差が際立つ。『コンビニ人間』の恵子は命題を語らない。ただそこにいる。だから読者は自分で何かを発見しなければならない。それはそれで別の暴力だが、少なくとも読者に思考の余地がある。 朝井リョウの親切さは、時に窒息感になる。 批評する小説は、小説たりうるか。この問いに答えは出なかった。ただ読後、その場所にはもう小説は存在しないのかもしれない、とぼんやり思った。次作が何を手放すかを、半分だけ期待しながら待っている。 ----- note全文(約10,000字)→ https://note.com/clever_beetle339/n/n924c7fffa572 - 2026年3月24日
イン・ザ・メガチャーチ朝井リョウ読み始めた@ 電車キャラを愛でる楽しさより「あ、今このキャラ、作者の論理を証明するために動かされてるな」っていう設計図が見えちゃう感じ。 物語に救われるんじゃなくて、朝井リョウという巨大な教会の信徒にさせられてる感覚……。この逆説こそが、かなり面白いかもしれない。 - 2026年3月18日
古都川端康成読み終わった@ 電車八重子の父、太吉郎が市電で見知らぬ少女に目を留める場面。単なる背徳趣味ではなく、捨て子である千重子への転移されたまなざし——「本当の娘ではない」という罪悪感が、安全な距離の他者へと投影される。川端において若い女性の美は常に官能と滅びを内包し(『雪国』『眠れる美女』に一貫)、「見る/見られる」の非対称性こそが罪の甘さを生む。そしてこの「届かないまなざし」は、後の千重子/苗子の二重性へと接続する。同じ顔をした他人への眩暈——川端の美学の核心。 - 2026年3月13日
古都川端康成読み始めた@ 電車 - 2026年3月13日
生命式村田沙耶香読み終わった@ 電車村田沙耶香の世界に浸ると、日常のルールが全部「たまたま決まっただけの遊び」に見えてくる。 『生命式』。どの話も異常なのに、読んでいるうちに「自分もこっち側では?」と思わされる瞬間が。 ラストの「孵化」で描かれるペルソナの変容は、もはや他人事じゃない。あのドライで冷徹な筆致が、ざわつく心をいい感じに冷やしてくれる。
読み込み中...