美学入門

25件の記録
- 柿内正午@kakisiesta2025年5月29日読み終わった@ 本屋lighthouse 幕張支店誕生日。本屋lighthouseで本を買う。意識していたわけでも、まったく意図していなかったわけでもないけれど、レジに持っていったのは注意やイメージについての本ばかりだ。この本は道中で読み終える。いい本だった。途中で銀座のエルメスで「スペクトラムスペクトラム」を見たのもよかった。
- 柿内正午@kakisiesta2025年5月29日読み始めたこれは些細な問題ではありません。この問題をより切実なものにするための一つの方法は次のように問うてみることです。つまり、それによって私が冷淡になってしまうのならば、なぜ私は知識に裏付けられた美的判断を気にかけなければならないのだろうか、と。知識に裏付けられた美的判断は何の喜びも与えてくれませんし、個人的にはまったく重要ではありません。結果的に芸術にかかわる楽しみが減るのであれば、なぜ美術史や二〇世紀フランス文学史についてもっと学ぶべきなのでしょうか。 この難問から抜け出す方法が一つあります。美的判断はそれほど楽しいものではありません。一〇代のころにしたような素朴な判断も、いましているような知識に裏付けられた判断も、どちらも楽しいものではありません。一般に、判断を下すことが、やりがいがあったり、愉快だったり、楽しいものであることはめったにありません。他方で、経験はやりがいがあったり、愉快だったり、楽しいものであることが頻繁にあります。同様に、判断を表明することを、個人的に意味があると感じるようなこともめったにありません。経験は、個人的に意味があると感じるようなことです。それゆえ美学は、判断ではなく経験を主題とすべきなのです。これらの経験は判断につながることがあり、私たちはその判断を他の人に伝えることもありますし、それは任意の素敵な付加物(ルビ:アドオン)ですが、判断につながらなければならないわけではありません。 私たちがこれほど多くの時間やお金を費やして芸術作品にかかわるのは、それに対して美的判断をしたいからではありません。それは、芸術作品とのかかわりの中で得られる経験が、楽しく、やりがいがあり、個人的に意味のあるものとなりうるからです。判断ではなく経験なのです。 私たちは、知識に裏付けられているか否かにかかわらず、美的判断の概念一般から離れようとすべきです。芸術作品に美的にかかわることの目的が、美的判断を下すためであることはめったにないのであって、「西洋」の美学理論はこの事実を尊重すべきです。私たちは、美的経験の時間的な展開に焦点を当てるべきであり、美的判断を表明するという(明らかに任意の)終着点に焦点を当てるべきではないのです。スーザン・ソンタグが述べたように、「芸術作品として出会う芸術作品とは経験であって、言明や問いへの答えではない」のです。 p.93-94
- 停好@ODAQ2025年5月24日読んでる3章途中まで。傑作を見ても感動しない経験、美学と芸術哲学の違い、など面白い。 美的経験の例として商品を陳列する服屋の店主、キッチンの物の配置が出てくるのが身近で確かに美しい景色でいい