ヘーゲル読解入門(下)

ヘーゲル読解入門(下)
ヘーゲル読解入門(下)
コジェーヴ
上妻精
今野雅方
白水社
2025年10月27日
13件の記録
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年6月24日
    実際、労働は所与の自然的世界を本質的に変貌せしめ、労働する者をこの世界における彼の「自然的な場」から放逐せしめ、かくして彼自身を本質的に変化せしめるが、それは当の行動が真に否定的である限りで、すなわちこの行動が或る何らかの「本能」や所与的、生得的な「傾向」に由来するのではなく、遺伝的な本能を否定し、生得的な「本性」を廃棄する限りのことである。そのとき、このような行動に対立することによって、このような本性は「怠惰」としてみずからを「現わす」。 (p.89) この辺りを読んでいると、後頭部あたりでドゥルーズの動物的な哄笑が響いてくる。 否定は確かに自身のエネルギーになることもあるが、否定の方向性を間違えればルサンチマンやマルクス主義の顛末に陥る。 ヘーゲル(コジェーヴ)の主張する否定による生成には臆病がどうしても付き纏う。 ドゥルーズの肯定に紐づいた生成は、実は「勇気」が常に必要となることを反面的に知る。 肯定からはじまる生成とは、一面的には楽観的に見えるが、実はとてつもなく英雄的な行為ではないかと思いはじめる。 平地にロイター板はない。 それはいつも、笑いがでてくる(もう笑うしか残されていないような)崖っぷちにしかない。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年6月19日
    任意の「N」の否定がわれわれを出発点に導くまで、すなわち「非N」=Aとなるまで続けられるであろう。そうなったとき、我々はこの最期の創造的な否定によって開ざれた円環を際限なく繰り返し歩むことができるだけであろう。 実際、実在する(行動による)弁証法は、「N」において、その否定である「非N」が「A」となる「N」において停止する。この「N」こそが用話本来の強い意味での総体性である。すなわち、それは肯定され否定され再び肯定されたものすべて、及びそうなりうるものすべてを統合したものである。なぜならば、「N」を否定することはすでに肯定や否定をされていた「A」を肯定することだからである。 (p.61) 人間ってそんなに単純ではないよなという思いより、その論理の簡潔さに惹かれる。数学的な記述だからだろうか。 Aは非Aという観念を得て、労働(行為)によりBとなり(生成し)、非Bという観念を得て…… 個人の変容、その構造は「歴史」の構造と重ねられる。 ではその始まりとなる「A」とは何か、何者なのか? 自分という一個人から始めるべきか、祖先から祖先へと遡るべきか。 「N」に至る道のりは、本質以外の付着物の削ぎ落としなのか、肉付けなのか。 この一文を考えているうちに「ハッピーセット」を食べ終えてしまう。 そして「おもちゃ」という非Nだけが残り、自分を見つめる。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年6月17日
    人間だけが消滅せずに誤謬を犯しうる。すなわち、人間は現存在するものに関し誤謬を犯しながら現存在し続けることができ、自己の誤謬を、或いは誤謬の中に生きることができる。そして誤謬も階もそれ自体としては何物でもないのだが、人間においては実在するものとなってしまう。 …… だが、実在するものの中でこの誤謬を保持することが可能であるといっても、それは結局この誤謬を真理に変貌せしめることが可能だからのことである。誤謬が純粋の無でないのはそれが修正可能だからであり、実際、経験が示すところ、人間の誤謬は時間の経過とともに修正され真理となっていっている。 (p.36) 動物における誤謬とは、身体の不具。 それは生存の危機に直結する。 人間における誤謬とは、存在と言説の不一致。 それは実存の危機に直結する。 人間はいつも「ズレ」という誤謬のなかに生きている。自身の言説(観念、欲望)がいつも存在を置いてけぼりにする。 誤謬は真理を求める。 そこに辿り着かなかったとしても、 そのひたむきさは後世に生きながらえる。 生きた人類の歴史として。 しかしその(勘違いという誤謬も含めた)言説と存在の同一性は、「死」を意味する。 楽園とは、不安をその源泉とする動悸の停止を意味する。 バタイユはコジェーヴのヘーゲル読解に衝撃を受けたという。それがこの文章だったのではないか。 ただ「誤謬」であっても生きられるーー自身のどうにもならない「過剰」を注ぐことのできる器を、バタイユはこの「誤謬」の運動に見出したのではないかと想像する。
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年6月16日
    したがって、哲学的もしくは「学的」方法は思性と存在との十全な適合を保証しなければならず、思惟は存在と実在するものとに、何であれその何物をも変更せずに、己れ自身を適応せしめねばならない。これはつまり、存在と実在するものに対する哲学者或いは「知者」(=賢者)の態度が純粋に受動的観想のそれであり、哲学的もしくは「学的」活動が存在と実在するものとの純粋で単純な記述に還元される、との意味である。 (p.14-15) ヘーゲルはものを書くときに、自身の今ここの歓びよりも歴史的な「使命」を強く感じていたのかもしれない。「知者」として『精神現象学』を書いていたのなら。 「受動的観想」とは預言者が神から言葉を授かるときの態度に近い。
  • 烏有
    @megalorrountas
    2026年3月14日
  • ないとう
    ないとう
    @lpicnic
    2026年1月5日
  • しもん
    しもん
    @shiminnoaka
    2025年12月8日
  • よもぎ
    よもぎ
    @yomoghi
    2025年12月6日
  • にゃめたま
    にゃめたま
    @seiji_s
    2025年11月13日
    しばらく積むことになる
  • 敗荷
    敗荷
    @sibue_fjodor_
    2025年11月11日
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2025年11月4日
  • 敗荷
    敗荷
    @sibue_fjodor_
    2025年9月29日
  • AIME
    AIME
    @aime2nd
    2025年9月4日
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved