

葉山堂
@hayamado
読書と、1930年代の日本文化が好きです。
- 2026年2月12日
- 2026年2月7日
温泉めぐり田山花袋読みたい - 2026年2月6日
死者たちクリスティアン・クラハト,高田梓,髙田梓読みたい - 2026年2月6日
小村雪岱 デザイン大鑑山田俊幸読みたい - 2026年2月6日
今和次郎 採集講義今和次郎読みたい - 2026年2月6日
夜と霧ヴィクトル・エミール・フランクル,ヴィクトール・E・フランクル,池田香代子読みたい - 2026年1月29日
黄色い本高野文子多和田葉子「百年の散歩」の最終話「マヤコフスキーリング」を読んでいて連想し再読。 こういう話を、漫画で、ここまで緻密に描けるのが本当にすごいと思う。(表題作) 私の高野文子ベストワンです。 - 2026年1月29日
百年の散歩多和田葉子ベルリンの、カント通り、カール・マルクス通り、マルティン・ルター通り、レネー・シンテニス通り、ローザ・ルクセンブルク通り、プーキシン並木通り、リヒャルト・ワーグナー通り、コルヴィッツ通り、トゥホルスキー通り、マヤコフスキーリング。 それぞれの場所で綴られる十遍の連作集。 言葉あそびで重ねられた文章。 そのあそびは美しいもの、淡々としているもの、感傷的なもの、笑えるもの(かなり多い)とさまざまで、きちんと読まないと、軸にある「物語」は進んでいかない。だからどんどんどんどん、というような、飛ぶような豪快な読み方はできない。だがその一行に詰められた世界の広さ、深さ。一冊の本で意識はいつでもこれだけ遠いところへ行くことができる。 余談… 滝沢カレンさんってかなり多和田さんに近い感覚を持っているのではないかと思った。明るくすこやかな多和田さん。 - 2026年1月27日
密室の戦争NHKスペシャル取材班,片山厚志11年前の2015年、NHKスペシャルで放送されたドキュメンタリー「密室の戦争」。 当時タイトルを一目みて、すぐに放送日時をメモした。「日本人捕虜、よみがえる肉声」というサブタイトルから、実際の会話音声が聞けるのだろうとわかったから。 1943年(昭和18年)から45年(昭和20年)、太平洋戦争が苛烈さを増していく時期に、南方の激戦地で連合軍の捕虜になった日本兵たち。オーストラリアの捕虜収容所での尋問を録音したテープが残されていることがわかり、ドキュメンタリー番組の制作が進められた。 本書はその番組の書籍化であり、ディレクターの片山厚志氏の制作の道のりを辿るドキュメントでもある。録音テープの存在を知った片山氏が、その音声を確認し捕虜の特定と遺族とのコンタクトに奔走し、ときに葛藤しながらも謎を紐解いていく様子が記録されている。 番組は、異なるキャラクターを持つ4名の捕虜が軸に据えられ、それぞれの尋問官とのやりとりから「戦争」を見つめる構造となっている。 強い信念を持つがゆえに苦悩する者、とくに深い考えを持たない者、自分がしたことに苦しみ疲弊していく者… 「戦争は醜い出来事…そう思いませんか?自分たちに嘘をつき、国に嘘をつき、私たちはその“嘘”に頼っている。それは私たち[尋問官と稲垣]の考え方からすると、全く間違っているように感じます」 「はい……でも、日本国民は政府や指導者に対して非常に従順なんです」 「そうなんですか?」 「彼らは自分たち自身で考えない」 「日本軍も危ないですね、これ」 「危ないです」 「そうすると、あと一年くらいで戦争は…」 「何で殺したか?」 「それはわかんない」 「わからないですか?」 「わからないです」 「拳銃で?」 「刀で斬ったです」 「首を斬ったか?」 「そうです」 「そんなこと、思い出してももう……嫌です。思い出すのが嫌です」 戦場で戦う人間の実態はただのコマである。 「祖国や大切な人を守るため戦った」というような決まり文句があるが、そのいかにも感動をさそう大義のもとにすることは、たんに一人でも多く、誰かも知らない人間を殺害することである。一対一の決闘ではない。崇高な信念もなにもない。 そして"英霊"になるかならないかは、銃弾のタイミング、当たる位置にいたかいなかったか、数センチの差。 現地の市民を殺害し、マラリアにかかり、飢えに苦しみ、精神に異常をきたし…戦場にあるのはただただ"混乱"であるということが、捕虜たちの言葉からは分かる。 ドキュメンタリーの実質的な主人公、稲垣利一と尋問官とのやりとりはあまりにもドラマティックで、現実のものとは信じられない思いがする。昭和18年、当時の状況下で、彼がある決断にたどりつくまでの苦悩や逡巡が、実際の言葉として「音声」に残っている価値は計り知れない。 この歴史的音源を発掘し世に出した当時30代のディレクター片山氏は、いまどんな番組を作っているのだろうか。 - 2026年1月25日
カササギ殺人事件<上>アンソニー・ホロヴィッツ,山田蘭読みたい - 2026年1月19日
- 2026年1月12日
新版 日本史モノ事典平凡社読みたい - 2026年1月12日
オイスターブックM.F.K.フィッシャー読みたい - 2026年1月12日
ハイランド辻村伊助読みたい - 2026年1月5日
- 2026年1月5日
母なる夜カート・ヴォネガット・ジュニア新年早々家族がインフルに感染、私ももらってしまい咳が止まらず、眠れないままに読んだのだが、内容に引きずられて朝になっても心が落ち着かない。 凄惨な描写があるわけではない、むしろユーモアがあって、シニカルで、しかしそういった筆致で綴られる物語はよけいに心に重くのしかかる。 物語は、主人公であるハワード・W・キャンベル・ジュニアによる告白録というかたちで綴られる。 キャンベルはアメリカ人だがドイツで育ち、第二次世界大戦中もドイツに留まった。 ナチス宣伝ラジオの放送員として、忠実なナチ党員を装いながら、実際は放送に暗号をのせて自国へ情報を送るスパイ。 戦後、ニューヨークに隠れ孤独に生きている彼が出会う隣人のジョージ・クラフト、医師のエプスタインとその母、白人至上主義団体のジョーンズとその"親友たち"、そしてキャンベルを愛する女性。 息をつかせぬ展開で一気に読ませながら、人間のもつ善悪というものがいかに曖昧で、人によって認識の違うものかということが描かれる。 ユダヤ人の大量虐殺は悪。戦争は悪。悪に逆らい人を救うことは善。人を愛し尽くすことは善。ではその中間は? 【以下、物語の内容に触れています】 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 物語(告白録)は、キャンベルの、かなり一方的な主観に基づいた内省が展開される。読み進めるうちに読者は、キャンベルの内省をそのまま受け取ってよいものか、疑わしくなってくる。 冒頭、「編集者の立場から」という"告白録のまえがき"で、キャンベルが劇作家であること、作家というものは創作の名のもとにいともかんたんに嘘をつけるということ、そして彼がアメリカ人でありながら文筆においてはドイツ語に一番堪能であり、そこにアイデンティティを持っていたことなどが記される。 ユダヤ人をガス室に送りながら、本当は"そちら側ではない"自分… しかしアメリカ人でありながらドイツ人の妻を愛し、ドイツのアイデンティティを持つ自分… キャンベルは大量虐殺に加担したという悪そのものを背負いながら、悪を悪と認識できない認知の歪み、精神分裂は自分にはない、そして自分のほんとうの内面にあるのは悪ではなく善である、と頑なに繰り返す。 戦争という大きな波に溺れ、思考機械の歯車の歯(真実)を自ら壊し、歯抜けの歯車を回してこそ矛盾した世界を生き続けられる多くの者たちと自分は違う… 自分は歯(真実)を自ら折ったことはないと。 しかしその真実とは一体なんなのか? 暗い影のなかに片足を浸し立っている自分を呼ぶ声を、キャンベルはずっと求めている。 『わたしはしばしば、その小エデンから聞こえてくる大声に耳を傾けた。子供の叫び声だが、なにはさておいても聞き耳を立てずにはいられなかった。それは、かくれんぼは終わったから、みんな隠れ場所から出ておいで、うちへ帰る時間だよ、ということを意味する甘くてもの悲しい呼びかけだった。 その文句はこうだ──「オリーオリー・オックス・イン・フリー」 そして、わたしを傷つけたい、殺したいと思っているであろう多くの人から身を隠していたわたしは、だれかがわたしにそう呼びかけてくれることをしょっちゅう請い願った。際限のないわたしのかくれんぼをやめさせるために、だれか甘くもの悲しい声で叫んでくれないものかと── 「オリーオリー・オックス・イン・フリー」』 ……… - 2026年1月3日
- 2026年1月3日
タトゥーママニック・シャラット,ジャクリーン・ウィルソン,小竹由美子読みたい - 2026年1月2日
文章読本 改版 (中公文庫 み 9-7)三島由紀夫2026年は文章を読む年にしたいと思い、引っ張り出して読んでいます。 三島由紀夫が、ものごとを非常に平坦な地に立ってみれる人だということは、彼の批評やエッセイだけでなく小説からも伝わってくる。 彼が優れた批評家であったのは、この"目"を持っていたことによるところが大きいと思う。 日本文学の本質と変遷を土台に文章を紐解いた超一流の解説本でありながら、当時の女性読者に向けてとても柔らかく書かれていて、うまく使えば中学生でも十分に面白く読めると思う。 冒頭のレクトゥールとリズールの話は非常に印象的で、私はいつもリズールでありたいと思っているが、とても難しい。 『チボーデは小説の読者を二種類に分けております。一つはレクトゥールであり、「普通読者」と訳され、他の一つはリズールであり、「精読者」と訳されます。チボーデによれば、「小説のレクトゥールとは、小説といえばなんでも手当り次第に読み、「趣味』という言葉のなかに包合される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人」という定義をされます。新聞小説の読者の大部分はこのレクトゥールであります。一方、リズールとは「その人のために小説世界が実在するその人」であり、また「文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界の住人」であります。リズールは食通や狩猟家や、その他の教養によって得られた趣味人の最高に位し、「いわば小説の生活者」と言われるべきものであって、ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きて行くほど、小説を深く味わう読者のことであります。私はこの「文章読本」を、いままでレクトゥールであったことに満足していた人を、リズールに導きたいと思ってはじめるのであります。』 - 2026年1月2日
ふるさとの料理 (1955年)伊藤永之介読みたい
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