アフリカ文学講義

13件の記録
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年3月22日読んでるまだ読んでる今日もお店は閑古鳥がギャア、隣のカフェは大繁盛。という状況を嘆く投稿をSNSにあげれば大反響となることは容易に推測でき、だからこそ拡散機能のないこの場にこそふさわしい話題かもしれない。しかし本を読むのにはさまざまな「体力」「気力」が必要で、人文書のような難しい本ではなくとも読めないときは読めない。ほとんどの人は本がなくとも生きていけて、そういう人が本を読みたいと思いかつ実行に移すのには、相当な「体力」と「気力」ときっかけが必要だ。さらにその前提として、余剰分としてのお金がなくてはならない。カフェでスマホを見ているかれらはそれを優雅にしているのではなく、それしかできないのかもしれない。そういう想像力が本屋のうちに根付かないかぎり、この社会状況は変わらず、つまり本屋に人が来ることもない。 かつてベルギーはルワンダを支配するため、現地部族のフツ族とツチ族を意図的に敵対させた。その目論見は時代を経て、植民地支配が形式上では終わりを迎えたあとに、ジェノサイドとして結実する。本を読む人、読まない人、という敵対構造もいずれ同様の結果を生むのかもしれない。あるいは、現状がその結果そのものなのかもしれない。
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年3月22日読み終わった相変わらず閑古鳥がギャアしており、気がつくと読み終えてしまっていた。『やし酒飲み』は来週入荷しそうだから、それを中心に据えてアフリカを、ひいては植民地支配に関するミニフェアをやってみようかしらん。こういうのが「売れ線」になったら世界は変わるんだけどな〜。
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年3月21日読んでるまだ読んでるアフリカに関する本を出すときに表紙に紋切り型のアフリカっぽいモチーフを使ってしまいがちなこと、それが本の中身とは関係なしにアフリカへの固定観念を強めていくこと、などが語られているが、これはフランスでの出版にかぎらず、そしてアフリカに関する本にかぎらず、ここ日本でも常に起きていることだ。そのあとに引用されるケニアの作家ビンヤヴァンガ・ワイナイナの、「アフリカについて書くなんて簡単じゃないか」と皮肉たっぷりに強調したうえで(p.129)なされる物書きたちへのアドバイスには、あきらかに怒りがこめられている。
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年3月20日読んでるまだ読んでるヨーロッパ=植民者側のアフリカ観は「アフリカは歴史がない、野蛮、未開」などであり、一方でアフリカの作家がアフリカ自身を「植民地化以前には悪は一切なかった」というように描いてしまうこともまた、問題である。しかし98pにあるサルコジの演説は酷い。と書いたが、日本の政治家も似たようなことを近隣諸国に対して現在進行形で言っていたりする。
- 本屋lighthouse@books-lighthouse2025年3月19日読み始めたそういえばこれがあったね、と思い出して読み始める。 エキゾチック文学の作品でも、冒険小説においてそうだったように、アフリカ人は戯画的な役割を相変わらず演じており、自分自身の世界のヴィジョンをいまだ提示していない時代ですから、さしあたり、自分たちの意見を言うことなどはまったくありませんでした――なお、このようなエキゾチック文学の精神は植民地プロパガンダと同じ類のものでした。植民地プロパガンダにおいては、描かれているものが語ることはまるでなく、少しも反論はしないし、言葉を発することなどいささかもないのです。こうして、この植民地プロパガンダを人は信じるようになる。まるで、これらの小説家が私たちに真実を語っているようだ、と思い込んでしまうのです。ところが彼らがしたことは、ある大陸をでっち上げ、黒人たちを空想することだったわけです……。(p.27) 「アフリカ人は「素材」にすぎない」し、「内省」するのはかれらではなくてアフリカに赴く西洋人であり、ゆえに真の意味でアフリカ人が描かれているわけではない。『やし酒飲み』はやはり大事な作品......。