高校生のための 人物に学ぶ日本の思想史(1)

高校生のための 人物に学ぶ日本の思想史(1)
佐伯啓思
公益財団法人国際高等研究所
高橋義人
ミネルヴァ書房
2021年1月13日
27件の記録
時間のかかる読書人@yoko452026年5月5日ちょっと開いた@ 自宅5西田哲学から、日本のあり方を展望する 6日本人のための「西田哲学」 ・純粋経験という「西田哲学」の出発点 ・無から生まれ、無に戻っていく 7グローバル競争の中で「西田哲学」を考える ・私というものを一度無にする
時間のかかる読書人@yoko452026年5月4日読んでる@ 自宅西田幾多郎 4「純粋経験」の概念を編み出した西田 西洋哲学というのは、私(主体)の向こう側に世界がある、これを可能な限り厳密に記述し、また正確に分析する、というものであり、ここに西洋の科学が成立する根拠もあった。花をみるという経験から出発するのではなく、花は花として存在する、というところから出発すれば、花の成分が分析できれば次に品種改良して、もっときれいな花を咲かせることができる。こうした論理がでてくる。 逆に見れば「世界」から切り離されたところに「私」、あるいは「主体」がある。だから、「主体」は、花をいかようにでも品種改良できる。そこに人間能力の発展や自由の拡張がある。西洋思想や西洋の科学の意味もそこにあった。 しかし、本当にそう考えてよいのだろうか。「私」も「世界」の中にいて、その中で動きまわっているのではないか。世界と私は分離してあるのではなく、世界が現れるところに主体は様々な形で「世界」と出会う。そこには人間の精神が働き、人間の生がある。それは世界と結びついている。われわれはすでにある種の世界に生きている。人間は「世界」から切り離されてあるのではなく、「世界の中」にある。世界の中でいろいろな経験をするのだ。西田は、そういう一番根底的なところに戻らなければならないと考えた。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月4日読んでる@ 自宅言葉が出てしまった時にはその大事なものが抜け落ちてしまう。言葉にならないその瀬戸際が大事である。そして日本人には言葉になる以前にこそ大事なものがある、という、そういう、心があった。例えば、桜の花を見たら美しいという。桜の花を客観的に見て美しいというのではない。 桜の花が美しいというときに、一気に咲いて散っていく、そのように人生が送れたらいいという。あるいは、そこに人生のはかなさを託する。それは口には出さない。しかし言葉にはならない思いを託している。そこでは自分が桜の花の中に入り込んでいる。自らを桜と一体化している。人々は、伝統的日本文化の中で、このような思いを抱いて桜の花を見てきた。日本で桜の花が特別視されるには、こういう思いの歴史があるからで、いい換えれば、西田のいう純粋経験こそが大事だという思いが日本文化にはある、ということだ。逆にいえば、桜の花がきれいだと言葉に出したとたん大事なものを失ってしまうと考える。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月4日読んでる@ 自宅ほとんど意識しないレベルで何かに出会ってしまった。何かを感じてしまった。そういう純粋経験がまずあって、そこが一番大事だという。この純粋な経験があって、そこから、何かをやりたい、何かを知りたい、といった意志も明快な情緒もでてくる。それに続いて、人は、どんな行動をしようか、どんなことを知りたいのかと考えて様々な活動を展開する。後になって、その経験を反省して、私はこういう経験をしたという。こうした反省をへて経験は知識に変わる。しかし反省する前のこの経験、この純粋経験こそが大事だと西田はいう。 人間が言葉を発する前、言葉の前段階、花がきれいだとかいう言葉を発する前の段階、そもそも花かどうかよく分からない刹那の経験のことを純粋経験という。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月1日読んでる@ 独立行政法人 国立病院機構 埼玉病院西田は、哲学は「悲しみから始まる」と言っている。こういう西田個人の人生上の悲しみや苦痛と、近代知識人の持っている独特のの苦渋や葛藤というものとはどこかで共鳴しているのではないか。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月1日読んでる@ 独立行政法人 国立病院機構 埼玉病院19世紀とは、いわば今日でいうグローバリズムの時代であり、それはまた帝国主義と呼んでも差し支えないのだが、この下で世界の第一等国になってしまう。ところが、それを支えるだけの日本人の精神性、あるいは価値観は成熟していない。殖産工業、富国強兵で国力は促成栽培できたものの、国民精神を促成で変えることはできない。ただただ西洋に認められることだけが価値基準になり、日本人の拠り所になる固有の価値はどこにあるのか、ということにもなろう。日本人が直面する大問題がここにあった。 漱石は、この大問題に立ち向かうのに、大言壮語するのではなく、また、政治の現場へ踏み込むのでもなく、日常生活の中で、自分の生き方、身近な人との関係などを見つめながら、個人として自立し、精神的な安定を求めることを地道に考え小説にしていった。それを彼は「自己本位」といったのは、漱石の小説は、自立のための手段であったからであろう。ただこうした問題は、当時の日本の知識人が多かれ少なかれ共有していた関心事であったと思う。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月1日読んでる@ 独立行政法人 国立病院機構 埼玉病院西田幾多郎 日本の近代を自らの人生の問題として引き受けた人。 漱石と重なるところがある。 漱石は英文学かは入って学習を辞めた作家であるのに対し、西田はあくまで哲学者であり広い一般向けに書いたわけではない。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月1日読んでる@ 独立行政法人 国立病院機構 埼玉病院第5章「無」と日本思想の連関ー西田幾多郎に学ぶ 「無の哲学」ともいわれる西田哲学は、超難解だとしばしばいわれる。確かに彼の論文はたいへんに読みにくいものだ。しかし、「無の哲学」の「無」という観念は、われわれ日本人には論理を超えて直感的にわかるところがある。「神」のような「絶対的な存在」から出発する西洋の思想に対比すれば、われわれには、物事の根底には「無」がある、という思想は比較的なじみやすいだろう。本章では、西田哲学の詳細な解説ではなく、その輪郭を論じ、日本思想との連関に触れることができればと思う。
時間のかかる読書人@yoko452026年5月1日読んでる@ 独立行政法人 国立病院機構 埼玉病院西田の読書体験は体系的なものではなかった。こういうやり方は、西田にとっては変則的なことではなく、むしろごく当然のこと。西洋思想の体系的な研究が目的ではない。西洋哲学のものの考え方を咀嚼したり対決したりすることで自分の考え方を切り拓いていった。西田は哲学研究者ではなく、自身が哲学者だった。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月30日読んでる信仰は、自己の立場を保証したり正当化して安心するためにあるのではない。むしろ、常に仏との出会いによって束の間灯された己れの仏性の明かりをありがたく受け止めながら、それによって同時に明らかになる自己の罪深さをかみしめることが、賢治における生きた信仰の姿であった。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月29日読んでる@ 自宅そう理解すると、「汽車の逆行は希求の同時な相反性」という表現、「汽車」が逆に行くのは希望し願い求めることの「同時の相反性」であることがほんやり理解できる。汽車が未来に向かって走っているのに、過去に向かっている(「汽車の逆行」)のは、自分の思いが過去に向かっているのに実は未来にそれを求めている、相反することが同時に行われているという意味ではないかと思う。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月29日読んでる@ 自宅第3章 「本当の幸い」を問うことー宮沢賢治に学ぶ 時間と空間を越境するツールとして、「鉄道」は、にほの近代化に非常に重要な役割を果たしていた。父政次郎は浄土真宗を信奉。宮沢賢治はこれへの反発もあり、日蓮宗へ惹かれる。宮沢賢治と日蓮宗の関わりは、非常に重要なテーマとなる。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月25日ちょっと開いた@ 自宅森鴎外 空車を前にして、人はそこに「空」や「無」を感じ、畏怖の念を覚える。空車は、その周囲にいる人々をも包み込むほど大きい。自分自身が空車に包み込まれる気がするからこそ、人は畏怖の念を覚える。そのような空車は、目に見える世界よりも大きい。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月24日読んでる@ 自宅この章で学ぶこと 明治維新後、日本は西洋文明を取り入れ、鉄道を作り、小学校を作り、郵便局を作った。だが、取り入れたくても取り入れられないもの、作りたくても作れないものがあった。それが西洋の個人主義だった。西洋的個人主義とどう向き合うか。これは、漱石や鷗外など、明治の文豪が直面した大問題だった。個人主義がないと、若きヴェルター的な西洋的恋愛もできない。鷗外の『舞姫』はそういう問題を提起している。 日本に個人主義はない。少なくとも西洋的な個人主義はない。では、個人主義を介いた日本人の精神は西洋人のそれよりも劣っているのだろうか。この問題で鷗外はずいぶん苦しんだ。その苦闘の果てに鷗外がたどり着いたのが「空車」という境地だった。 そんな彼の苦闘の歩みをたどってみよう。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月22日ちょっと開いた@ 自宅しかし日本人は西洋と違った物の見方をしているのではないか。西洋の基本的な考え方は、現実を一歩離れ、できるだけ現実を客観化し対象化してみようとする。現実を離れたところに主体を置く。 できるだけ観察者として現実を眺める態度をよしとする。これが西洋の哲学や科学の立場であった。 そういう立場を漱石はとらないのだが、日本人の思考習慣もこの西洋的な客観主義とは違っていて、例えば、西田哲学(西田幾多郎の哲学)の決定的な論点もそこにあった。 西洋哲学は、世界と、それを見る自己を分離してしまう。主体と客体を分けてしまう、それでは不十分だというのが西田哲学の出発点であった。実際には主も客も世界の中に入っている、世界の中で動きながら人間は考えたり、直観的に物事を把握したりする。これが西田哲学の出発点で、漱石も同じようなことを考えていた。傍観者・観察者として世間を見ることはできない。世間の中にあって、その具体性において世界を見ることが大事で、そこから出発する。それは科学にはならないから文学や小説になる。そういう問題があった。もっとも、付け加えておけば、漱石はだからといって科学を嫌悪していたわけではまったくなく、あるところでは自分も科学者になればよかったというようなことを述べている。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月22日読んでる@ 自宅彼にはそういう両面がある。彼は学者に対する違和感を強く持っているが、彼には学者的な資質があった。観察者として非常に鋭い観察ができる人であった。しかしそれを学者的にやるのではなく、自分の内面を観察し、自分の内部を見つめるという自己解釈へと向かっていた。いずれにしても観察している自分と観察されて現実の中で動いている自分の曖昧さ、揺れ動き、最終的な結論がでないままの宙ぶらりんな状態が漱石にはある。現実の中にすっぽりと埋もれるわけにもいかない。現実の中であたふたしている自分をもう一方で見てしまう。見てしまうから辛い。そういう不安、二重性がある。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月21日ちょっと開いた@ 自宅それは、西洋近代の自我や個の意識という抽象的な理念を述べているのではない、そうではなく、あらゆる事柄を、自分が実感としてじられるものだけを確かなものとして受け取り、それを自分で確かめ、他律的な価値の基準に従うのはやめようということだ。「現代日本の開化」でいわれた、「外発的開化」ではなく「内発的開化」こそが大事だという思想の延長上に「私」というものを置いている。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月19日ちょっと開いた@ 自宅ただただ日本は文明の上皮を滑っているだけだ。あるいは滑るまいと踏ん張って神経衰弱になっている。そうだとすればどうも日本人は気の毒というべきか、哀れというべきか、真に言語道断の窮状に陥ったものである。私の結論はそれだけにすぎない。あのようにしなさい、このようにしなさいというわけではない、どうすることもできない。実に困ったと嘆息するだけで、極めて悲観的な結論である。 この開化は残念な事態という他ないが、だからといって西洋的近代化から抜け出すわけにはいかない。西洋的近代化の中に飛び込んだ以上、この道を逸脱するわけにはいかない。この状況をまともに憂慮して、上滑りすまいと踏ん張ろうとしたら、日本人は神経衰弱になる、と彼は述べる。それはしょうがない。そういう悲観的な結論しか出てこない。漱石の姿はどこまでも憂鬱であり、さびしそうである。漱石自身がそういう人生を生きた人であった。
時間のかかる読書人@yoko452026年4月18日読み始めた借りてきた@ 自宅要するに、実の親、それに親戚の養父などという身近な人間関係において、極めて複雑な環境にあった。そのあたりのことは小説「道草』の材料になっているが、いずれにせよ、親の愛情を受けなかったこと、家庭や親族という縁故者への不感が彼にとって大きな問題になってくる。このような他人への不感や孤独感、そしてまたそのように感じる自己への嫌悪という自意識が漱石の基本的な人生体験の原点にあった。
