普通という異常 健常発達という病
84件の記録
もえ@moet-17152026年9月10日気になる読みたい仕事柄、発達障害の方と多く接するのだけれど、私はいわゆる定型発達(単に薄いグレーなのではとは思う)で、理解しようと務めても、積んでいる脳みそが違うので彼らが見ている世界を同じように見ることはできない。この本が理解の一助になってくれることを期待して読みたい。
青甲羅@ao_coke2026年7月20日読み始めたストラテラを服用しているADHDの端くれとして、「多くの人はこのように行動するのだろうけど、そうなる理屈が全然分からんな〜」と思うことは多々ある。 この脳以外を積んで生きた経験がないので、定型発達的な行動への理解の一助にできたらと思いながら読んでいる。


TOMOCK@To_mock2026年7月18日読んでる借りてきた冒頭から健常発達の子たちが発達障害の子たちにいじわるコミュニケーションをしてくる話から始まってて、 健常発達の子たちは人の目や周りの目、同調圧力を駆使して自分の立ち位置を測るのに対し、 発達障害の子たちは、自分軸があって、そうしたいじわるがなんで起きるのか理解できないというような事が書かれている。 健常発達だからといって、普通というわけではない。 すごく面白い。


karin@karin_022026年7月14日読み終わった雑な感想だけど、 ADHD•ASDなどの非定型発達はその傾向が強すぎると定型発達が多いこの社会では空気読まなさ過ぎるので社会と摩擦が生じて病気になる人がいるのに対して、 定型発達(現代ではマジョリティ的)の場合は、空気を読むこと、他人から自分がどう見えるか?、自分の社会的位置などに常に神経を使う傾向があって、その傾向が強すぎると消耗して病気になる人がいるという印象。 以外と定型発達も大変なところがあるんだなぁと思った。




リト@leato2025年6月8日読み終わった借りてきた「たとえば、漱石の作品中で最長であって、即天去私の心境を描こうとしたと言われている「明暗』を例に取ってみましょう。そこでは、主人公の津田雄、その妻・お延、妹・お発、かつての恋人・清子の心理描写が、鋭利な筆致で描かれています。しかし、とこで照準をあてられているのは、「私」であって、延々と「私」を追い求めることで、むしろ「私」がとめどもなく見失われていく様子が臨場感を持って活写されています。 『明暗』においては、外部世界から予想外に侵入する攪乱者として寿核と吉川夫人が登場しますが、子規ならば、むしろ、特によってお尻に開いた穴を体感し、そこを活写する一瞬に明滅する「私」を捉えようとしたような気がします。子規が、「食べる」「病む」「見る」といった行為を通して対象に没入することで、則天去私を実行し、ものに照らされた見事な「私」を浮かび上がらせているのに対して、『明暗』の主人公を枠づけているのは、むしろ、物語の外にある寿核とか津田を不倫へと誘う吉川夫人であって、生きるととの不可解さ、あるいは隠されたレアルなものの不可解さに主人公は翻弄されるのです。」
amy@note_15812025年3月9日かつて読んだ感想”定型発達の特性を持つ人も負けず劣らず病的になることがあるのではないか、この本で取り扱いたいのは、こういう疑問です” ADHDやASD、いわゆる非定型発達という概念が浸透してきた。それに対して、定型発達の特性が過剰な人の特性についても紐解いていくという本 興味深かったのは脳内のドーパミン放出に関するところだった。健常発達(本のなかで著者があえてこう書いている)は自分がなにかに直接触れて感じた快・不快を、すぐにまわりの多くの人が良しとする行為や目標へ置換される。これが躾のしやすさやルールを守ることにつながりやすいが、つまりそれは、社会制度的な正しさが自分の実感と深く結びついてしまい、自分が本来何を求めていたのかが曖昧になりやすちことではないか、と書いているところはああ、なるほどなと納得した 自我よりも社会の要請に従いやすいとでも言えばいいのか。とりあえず従っておくというのは校則なんかでも何のためにこのルールを守るのか、というところを一足飛びにして、とにかく従うものというようなことになりやすい 後半は哲学的な内容になり、正直難しくあまり理解できたとは言えないかもしれないけれど、前半の健常発達(定型発達)はいったいどういうことか、という内容だけでも読む価値はあったと思う




みつ@m-tk2025年3月6日借りてきたかつて読んだ──デカルトにとっては、水槽の中の脳が思っていること、この思っていること、この思っていることそのものはどうやっても否定できない、つまり水槽の外がどうであれ、水槽の中の脳が思っていることにこそ、そこから出発すべき確かさがあるのだといっているのです。
Kannazuki@kannazuki2025年3月6日買った読み終わった息子は自閉症の診断は受けていないが知的障害がある。息子の見ている世界と私が見ている世界、息子を形作っている世界と私を形作っている世界。私が経験することのできない世界に、息子は生きている。
やん@grilledyangyang2024年7月27日読み終わったかつて読んだまた読みたい「健常発達もまた病理なのではないか」という問いを、様々な実例を補助線として論じていく。身近な事柄や症例から、哲学、精神分析、アートまで幅広く取り上げており、「障害の本」と思って読み始めたら、とんでもなく哲学的で分野横断的だった。非常に難しいが、面白かった。 ・健常発達同士の「いじコミュ」 ・現代人の存在を確立する「いいね」 ・デカルトやハイデガーの向こう側にある実体(レアル)論。 ・精神分析における「去勢」 ・ウォーホルとポロックの近〜現代アート。 ・ミッキーマウスと天皇制。 ・「あざとさ」 ・極限まで平板化することで普遍性を獲得する「アイコン」と「アケイロポイエトス」 ・マリリン・モンロー「お喋りと好奇心の受容器」としての極限のアイコン性。 ・「いいね」はあらゆる人を小さなマリリン・モンローにする特性がある。 ・サルトルによる人間の条件。 ・「人は人を浴びて人になる」「いいね」によって人となる。「いいね」は、現代人にとってその承認を与える装置なのだろう。しかし、他者から認められるためには、他者から認識されやすい形にならなければならない。「いいね」は人を平板化し、アイコンにしてしまう。 以下、雑多な備忘録。 ・「いじわるコミュニケーション」(いじコミュ)、つまり対人希求性の表出が実生活で取りうる形に焦点を当てる生活臨床。 なんか、職場のお姉様方の挙動が脳裡に過って、キツイわぁ〜。なるほどね。そういう行動原理が働いてるのね。 「いじコミュ」がない世界が色褪せた世界、なんて......それは優しい世界だろ。 ・健常発達の多くは、「色、金、名誉」を人生の骨格にしている。色+名誉=対人希求性。 生活臨床では、こうした人生の躓きの原因となったものを排除するのではなく、むしろ人生の「つっかい棒」として、倒れてしまわないよう支えに利用する。 ・症状に治療の目標を置くのではなく、生活に目標を置く、という着眼点。当事者が大事にしていること、したいことの実現に寄り添う。この姿勢は大切にしたい。 ・ADHDと健常発達、それぞれに特性の長所と短所がある。ADHDを「ドーパミン移行欠陥症候群」と見るなら、健常発達を「ドーパミン移行過剰症候群」と解釈する余地もあるのではないか。 ・ナッジも面白い。合理的選択を前提にした、なんとも帝国主義的なリベラリアン・パターナリズムの権化。 ・ADHDの三重経路モデル。時間のリズムの刻み方がばらついてしまう時間知覚。デフォルト・モード・ネットワークの休止障害仮説。これらは特性としてさらに調べてみたい。 ・デカルト的コギタチオなど、哲学をほとんど触れてこなかった身としては、とにかくムズい。しかし、こういうものを身につけると、世界の見え方の解像度が上がるんだろうなぁ。 ・本書の議論を読んでいると、ミッキーマウスの在り方って、近世以前のヨーロッパにおける「神」だよなぁ。人間は、何らかに「存在の確立」を保証してもらわないと、自己がバラバラになってしまうのだなぁ。宗教文化や社会構造が劇的に変わったことの弊害の一つが、現代の「いいね」文化なんだろうな。そう考えると、今はまさに社会の転換期なのかもしれない。 ・「私たちの身体は根源的にその成り立ちにおいて初めからすでに侵入されてしまっているものとしか存在していないのではないか」 アリストテレスが、目の前の机や椅子を第一の実体とする哲学を、デカルトは「私」を第一の実体とする哲学へ反転させた。現代は「いいね」を第一の実体とする哲学へ変容したのか? 「人間」を考えるって難しい!!!

















































































