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mkaizyuu
@waita256
本のsns!!待ってました Twitter: @myaramyaraadmit
  • 2025年5月6日
    母性のディストピア
    本書のインパクトは、オウム真理教が露呈させた「虚構」では満足できなくなった若者達、或いは01年同時多発テロ、そして「インターネット」革命が意味する「虚構」の時代の終わり、そして「拡張現実」の時代の始まりに論が展開した点にある。 それは一言で言えば、「アニメ」や「映画」或いは「テレビの中のスーパースター達」といった虚構が退潮し、代わりに「LINE」「Instagram」といったSNS(Zenlyなんてのもあった)、手が届くアイドル「AKB」に「YouTuber」、「マッチングアプリ」といった虚構(インターネット)が現実をアップデートする時代を意味している。
  • 2025年4月28日
    日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか
    最近読んだヘーゲル哲学を引用していたし、呼応している部分があった。曰く、狐に騙されていた人々と現代人の精神世界の違い。周りの環境の違いの指摘だ。一方で筆者はヘーゲルも含む西洋哲学の、歴史を発展的に捉える姿勢と、日本における自然の「循環」的考え方が異なるとも指摘している。これは興味深い。悟りとは自己解体である、と作者は述べている。ヘーゲルでも自己の目覚めに至る途中、ローマ?時代の青年たちが全てを公に捧げるためひたすら自己を否定するみたいな展開があったような。
  • 2025年4月13日
    超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』
    くそほど時間かかったけど読み終わった。前半部分の意識、自己意識は元々ラカンとか哲学史講義、カントもちょこっと学んでいたので、デカルト〜カントの認識論を超えたヘーゲルとか、「無限性」が精神発展の鍵で、真の自由の所とかもわかりやすかった。問題は理性、精神、啓蒙でここは初見だったので色々苦労した。学びも多かった。例えば、ギリシャを過ぎたローマで現実と理想が乖離し、ストア主義らが生まれたとか。理性とは基本的に自己意志と社会意志(普遍意志)が統一すると確信していることだとか。カント道徳批判も。道徳は独りよがりで、世間の普遍と向き合おうとしていないとか。それを乗り越えるのが良心で、世間によって良いことと向き合うことであるとか。ローマ、絶対王政で自己を捨てて権力を獲得したが、その無価値性?を理解してついに、自分にとり正しいものを実現しようとする自由精神の時代に突入するとか。恐怖政治が人々の身勝手な自由?への幻想を捨て去り、道徳へ歩み出す。まー疲れた。ヘーゲル凄すぎ
  • 2025年3月20日
    超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』
    ヘーゲルは「自己意識」について、自己の個別性を意識している状態、にとどまらない「他の否定」を通して自己の絶対的な「個別性」を確保しようする独自の欲望であると述べている。これはつまり、自己意識はそもそも欲望であり、だから我々はその確立を目指し、そして他者との関わりも、この欲望の正体が、他者による自己の承認の欲望、つまり、「承認欲求」を指していることに端を発するということを示している。 この現代人を悩ませる厄介な欲望について、ヘーゲルが17世紀に最初に言及したのだとしたら、その偉大性たるや凄まじいという他ないだろう。
  • 2025年3月16日
    超解読! はじめてのヘーゲル『精神現象学』
    デカルト、ヒューム、カントと続いてきた「我々は物そのものを客観的に認識できない」を乗り越えただと!!そりゃあ後世に残るわな。 あと、力は内的な存在と発現後の外的な存在の不可分で成立しているという議論は哲学史講義の「発展」の定義を彷彿とさせる。発展とは、もともと備わっていたものが発現すること。。そして発現前と後の物は姿は違えど同一のままにとどまる。
  • 2025年3月15日
    現代民主主義の病理 戦後日本をどう見るか (NHKブックス)
    個人に責任を負わせる個人主義的デモクラシーの矛盾を述べている。つまり、そもそも「責任」というものは何か自分以外のものに対して負うことで生じるものであり、かつてそれは宗教だったり、国だったりした訳だが、従って、個人が個人に責任を負うなどということは不可能だし、そもそも成り立たない。社会や歴史や国家を否定し希薄化し、デモクラシーを唱えることで、逆にその土台となっていた責任や信頼が壊れ、ますますデモクラシーの本質からは程遠い、孤独な個人が跋扈する崩壊した社会が実現する。ああ、本書が書かれた96年よりも、何倍にも増して今これらのことは容易に理解できる。トランプ、反ワクチン、財務省、政治家の襲撃、陰謀論の蔓延、少子化、ウクライナ侵攻。。。。。
  • 2025年3月9日
    羊をめぐる冒険(上)
    「海のことはもう忘れよう。そんなものはとっくの昔に消えてしまったのだ。」 いつも多くのものを失っていると感じている「僕」は、ついに「海」をも失った。また、故郷の海が埋め立てられている事実を踏まえて海=故郷を失ったと感じているとも言えよう。「海は五十メートルぶんだけを残して、完全に抹殺されていた。」しかし、三部作で一貫して「失い続けた」僕の作中の結末、そして描かれない未来について考える際に「海」は重要な役割を果たしている。 まず、「僕」の本作における思考的方向性について語ろう。「ひきのばされた袋小路」にあって妻と別れ、相変わらず「貯金を食いつぶすように」不幸な時間感覚の中で生きている「僕」だが、妻との絶望的な別れから一月ちょっとで極めて唐突に「耳」持ちの彼女と出会う。その気の変わりようにも驚くが、いよいよ彼女との「羊をめぐる冒険」が始まってからはそれに関する思考・出来事がほとんどで、前作で常に「僕」を苛んできた陰鬱な過去と未来への憂い は鳴りを顰める。しかし、その冒険の最中、「僕」の心の拠り所となっていた「耳」持ちの彼女はあっさりと姿を消し、かつて同質の悩みを抱えていた「鼠」は生きることを諦める選択をする。一方で最終的な「僕」の選択、決断、展望については明確ではない。しかし、本作が「歩き始めると背中に小さな波の音が聞こえた。」で締めくくられていることからは一定の明確性を読み取ることができる。つまり、失ったはずの「海」を再び描くことで、失われたものとの再会、新たな出会い、そして出発を表現している。これは何かを失ってばかりだった「僕」にとっては満足すぎるほどの結末と言えるだろう。そしてこれこそが私が村上春樹を好きな理由でもある。
  • 2025年3月4日
    成熟と喪失 “母”の崩壊
    成熟と喪失 “母”の崩壊
    ヘーゲルとラカンは、自己が自由であること、理性的であることは他者によることで初めて実現することができると述べた。そして自己の発見がラカンの「鏡像段階理論」、つまり幼児期の現象を持って説明されていることは極めて示唆的である。つまり、江藤が「成熟すること」=「再度自由になること」、つまり自由になることの前提である「他者」のいない状態を未成熟な状態であると評したのは至極当然の論理の帰結なのである。
  • 2024年12月31日
    破戒
    破戒
    私には決して誰にも明かせない人々への負い目がある。それは明らかに丑松の抱えるそれと比較して大したものではない。しかし、これはあくまでも主観的な問題なのである。悩みというのは、悩んだところで到底解決できるものではない。それは、解除されるまで終わらない拷問のようなものである。だから私は、いつも悩みに悩んだ後、決まってそれが如何に馬鹿馬鹿しいことであるかと自らに言い聞かせる。 それによって幾らか気分がマシになることもある。しかし、そういうまやかしは長くは続かないもので、気づけばまた拷問が再開し、終わることのない絶望がやってくるのである。 「これほど深く若い生命を惜しむという気にもならなかったであろう。これほど深く人の世の歓楽を慕いあこがれて、多くの青年が感ずることを二倍にも三倍にもして感ずるような、そんな切なさは知らなかったであろう。」 最近も、私の年齢(学年で言えば、24の歳。これも また、偶然ではあるが私が丑松に強く惹かれた原因の一つである)を聞いた周りの大人達は皆一様に私の若さを羨み、如何に若いということが素晴らしいかを私に説いた。むろん、そういう場面に幾度も出くわしている私は、その回数によって、若いということの素晴らしさについて若いながらも確信している。それに、過去というものが大抵美しいということについても気づいている。しかしながら、そういう言説は今の私には責苦でしかないのだ。負い目のせいで常に拷問に苦しむ私にとって、「今」は苦痛そのものなのである。また、若いという素晴らしい時代を全うできないことが何より辛く、それは大変大きなチャンスを流しているような感覚で、つまり相 対的剥奪感を味わっている。そうであるからして、いっそ若さなど手放してやりたいと切に思うのであり、丑松の気持ちが痛いほどわかる。
  • 2024年11月21日
    眼球譚[初稿]
    眼球譚[初稿]
  • 2024年11月17日
    政治的なものの概念
    政治的なものの概念
    「より大きな問題は国内の人だと思う。米国には非常に悪い人間がいるし、病んだ人々もいる。急進左翼の異常者だ」 「必要なら州兵によって、あるいはもし本当に必要なら軍隊によって、ごく簡単に対処できると思う。彼らならそういった事態になるのを未然に防げる」 これは、シビル・ウォーの作中発言ではない。 トランプ氏が選挙期間中に支持者に向けて話した内容である。もはや、フィクションと現実の境目は消えかけている。 これについてカール・シュミットは以下のようなことを述べている。 「政治につき語りうるには、闘争の現実的可能性はつねに存在していなければならないが、こうした「内政の優位」の場合、この可能性は、当然の帰結として、もはや組織された国民的統一(国家または帝国)の間の戦争ではなく、内戦に関係してくる。」
  • 2024年9月8日
    海辺のカフカ(上巻)
    私が最初に印象を持ったセリフは以下である。 「頭がよくても悪くても、字が書けても書けなくても、影がちゃんとあってもなくても、みんなそのときが参りますれば、順々に死にます。」 本作の大きなテーマの一つは過去と未来、すなわち時間である。我々は得てして、時間は必然的に流れていると考えがちである。 しかし、それは時間が流れていることを意識しているからそう感じるだけであって、猫たちのように時間の流れを感じない者にとっては時間は 不存在のものなのである。つまり、時間はそれほど大事な問題ではない。 そして、そんな猫たちと会話できる存在としてナカタが登場する。そんな彼もまた、一貫して時間という概念を持たない。 時間がないから未来もない。未来がないから死を恐れる必要もない。彼の上記のセリフにはそういう背景がある。 時間の概念を持ち合わせないナカタは他の多くの概念についても持ち合わせない。例えば「飽き」と「記憶」である。 「ナカタには思い出というものはありません。ですから、サエキさんがおっしゃる『苦しい』という気持ちは、ナカタにはうまく 理解できないものであります。」先述した、死を恐れないという事とも関連するが、我々は往々にして過去を後悔し、 未来を恐れている。勿論その逆もあろうが、トータルで過去と未来にポジティブな感情を抱いている人がどれほどいるだろうか。 本作はナカタの言動を通して、時間から解放されることの喜びと、時間がもたらす苦しみを我々に訴えている。 この命題は村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」にも登場する。 「時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐しい事に、それは真実なのだ。」 「風の歌を聴け」を読んだ私はこの命題に対して自分なりの答えを出した。 それは、 結局のところ死んだらそれで終わりなのだから、 不確実な未来に怯えて過ごすよりも、今をどう楽しむかに全力になった方が楽しいというものである。 これは、実にナカタの思考に近い。 事実として、未来は不安をもたらす。だから上記のような生き方は望ましいと思える。しかし、これでは不十分である。不十分で不親切でもある。 何故なら、我々が人間である以上、過去と未来を我々の中から完全に消し去ることはできないからである。本作は、この問題に対して結論を出している。 その一つは、「いいかい、それはもうすでに起こってしまったことなんだ」というマインドである。つまり、過去をそれそのもとして受け入れろ ということである。また、「言いかえれば、君は彼女をゆるさなくちゃいけない。それはもちろん簡単なことじゃない。でもそうしなくちゃいけない。 それが君にとっての唯一の救いになる。」 つまり、未来に対して希望を抱けということも語っている。過去を受け入れ、そこから未来への希望を抱け。 それはなんと荒唐無稽で平凡で肩透かしを喰らうような結論だろう。 だが、私にとっては「風の歌を聴け」から「海辺のカフカ」を通してこのような 結論に至ったことは救い以外の何者でもないし、大きな意味を持つのである。
  • 2024年6月9日
    ラカン的思考
    ラカンの真骨頂は鏡像段階理論はあくまでも一つの例えでしかなく、人が何かを思考する時、その何か、を考える材料は全て前提となる言語、知識、他人の考えの元に成り立っているのであるから、思考するということはすなわち、「言語世界」に身を委ねることと同義であり、そこを通すことででしか、「自ら」は存在することができないと主張した点にある。 ここで言う「言語世界」とは、言い換えれば他者であり、すなわち、人間は他者になることによって、つまり自己(オリジナルな自ら)を失うことででしか理性を獲得し得ないとラカンは言ったのである。
  • 2023年6月11日
    水声
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