沖縄社会論
35件の記録
中村@boldmove332026年3月11日読み終わった本書は、打越正行が気骨のある社会学者であったことを記録していると同時に、彼が優れた人格の持ち主だったことを示す証跡となっている。フィールドノーツからは彼が調査対象者たちから愛されていたことが伝わってくるし、解説からは同業者たちからも愛されたことが読みとれる。すばらしいフィールドワーカーでとても憧れる。こんな仕事ができる人になりたい。 >佐藤にとってフィールドワーク至上主義は、調査票中心主義とともに、避けるべき調査態度である。そしてそれを避けることで、調査対象者と一定の距離をとり、さまざまな調査方法で対象に迫るとする「恥知らずの折衷主義」を提唱する。それはある特定の視点や態度に固執しないという点で多様であり、また柔軟なものであるが、つかえる部外者という安定的な地点からの定点観測的なものの見方となっている。(p. 74) >巻き込まれながら調査する理由は、そうしないと私たちが立てた仮説のことしか分からないからである。社会調査は、調査者が想定したことを確かめに行くだけではなく、私たちがまだ知りえていない世界に魅力を感じ、またそれを見落とすことに恐れながら調べることでもある。(p. 88) >打越は、自分をおとす。相手をおとすのではなく、自分をおとすことで交流を深めることを、打越は反射的におこなうことができる。そうして自分をおとすことで、相手を上に置く序列をつくりだし、やりとりを展開していく。これがパシリとしての参与観察の基本構図だ。(p. 104) >製造業がほとんどない沖縄では、合法的に中間層にたどり着くルートはほぼ閉ざされており、非合法的な手段でそこを抜けるルートしかない。それゆえに、暴力団に入ったり、刑務所に行ったり、また地元から消息不明となる若者も出てくる。(p. 155) >日本社会の経済成長は、大雑把に述べると地方の農村出身者が都市に向かい自ら安定的に働き、その結果賃金が上昇し、今まで手の届かなかった電化製品を手に入れ、より安定した地位を得るといった循環を何度も経験した。(p. 184) >暴力は当の本人がまったく統制できない行動でもなく、ある社会の興奮状態で起こる聖なる行為でもない。それは文明化された現代でも、いつでもどこでも誰でも行使しうる世俗的な行為のひとつである。その意味で、私たちはまだ完全には文明化されていないはずだ。そのうえで必要なことは、暴力という行為を理解することである。(p. 321) >後輩に追いつかれることの恐怖にもとづく暴力は、現在の沖縄の建設業だからこそ現れるものである。製造業であれば、先輩は次の技術段階やより高い給与、そして後輩にはつけない地位につくことができる。他方で宮城は追いつかれ、そこであたかも自身と浩之がフラットな関係にあるような態度をとるということは、宮城にとって屈辱的なものとして映った。(p. 344) >仲間になること。一員になること。実際にそのメンバーになること。それは、感覚や信念までも共有すること、同じ考え方をすること、単に装うのでもなく演じるのでもなく、「実際に」その一員となるということだ。つまり、参与観察の果てにあるのは、自分が他者になっていくことである、ということを、打越正行は身をもって示したのだ。(p. 403) >私たちは当事者にはなれない。そのことはいまでも変わらない。しかし打越の調査実践を20年ほども身近で見てきて、私たちは当事者にはなれないけれど、「関係者」にはなれるかもしれない、と思うようになった。打越にとって沖縄はもう、他人ごとではなくなっていた。(p. 409)
にわか読書家@niwakadokushoka2026年2月27日読み終わった@ 自宅代官山蔦屋書店の上間陽子さん・信田さよ子さんのトークイベントをオンラインで見て、買っておいたものを読み始める。心を揺さぶられた。 結論が出ていなくともフィールドワークの記録からしか得られないものがあると思っている。 本という媒体に関わり続けたいと思う理由の一つでもある。



白玉庵@shfttg2025年12月27日買った@ UNITÉ(ユニテ)石岡さんの手売り会で買えた。打越さんの楽しそうなスナップ写真も飾られていて、いい先生だったんだなぁと改めて思った。 年末年始本が積み上がっている。





































