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めい
めい
@meiji_chan
嫌な読後感が好きです。ミステリ、食べ物。最近は50〜60年代の作品が気になる。
  • 2026年10月5日
    変な絵
    変な絵
    小3の娘の熱烈なすすめにより、通勤電車で一気読み。 これは確かに、小学生にはおもしろすぎる………「あの頃」の『パスワードシリーズ』や『デルトラクエスト』のような、本好きの子供を狂わせる匂いがする。ヒントがあちこちに散りばめられ、謎解きを誘い、真相を匂わせつつも子供にはギリギリわからないところでかわし、でも大きすぎる裏切りはなく、期待通りに着地する。 正直「ミステリが好きな大人」からすると、トリックまではわからなくても、真犯人はわりとすぐわかってしまう優しめのつくり。職業のリアリティのなさとか、若干無理めの「驚きのためのつなぎ」を感じてはしまうものの、章ごとに扱われる不可解な絵が1つの事件に収束していく流れは鮮やかで、よく考えたな…と素直に感心してしまう。 世界中のほぼ全ての親は多分、我が子を守るために絶対に必要なら、人間の一人や二人殺せる。それにしても、殺しは最後の手段すぎるだろ……と思うけど。でもそうか、「この子には親が自分しかいない」「離婚できない絶対的な事情がある」なら、追い詰められた親は「殺すか…」となるかもしれない。 その「殺すか…」に人格的な裏付けがあり、そこが冒頭で補強されているのも、若干の無理はあるけれど綺麗な構成だと思った。流石ダガー賞候補! エグめの殺人事件が起きるがグロい描写はそこまで多くなく(普通に不同意性交について言及されていたのでおや…と思ったけど)、おそらく今まで接したことのない強目の刺激だったはず。読破した娘がドーパミンドバドバの爛々とした目をして熱く語り、「うちに私でも読めるミステリーないの!?」と聞いてきたので(ない)、ほくそ笑みながら「ようこそ…」と言ってしまった。「もう少しお姉さんになったら、ママの本棚にある『十角館の殺人』を読みなさい。その前に外国のミステリも読んでおくといいかもね!ホホホ!」と高笑いした。キモ親 元々本は好きな子だけれど、「お願いだから読んでほしい、ガチで読んでほしい、この本について誰かと語り合いたいの!!」と叫ばれたので、相当すごい読書体験ができたのだろう。 かまみくの最新作でこの本の2章を読んでから「全部読んでみたい」と言い出して買い与えたので、みくのしんさんのおかげで娘が結果的に今東野圭吾(子供向けシリーズがある!)を読んでいることになる。 みくのしんさん、かまどさん、雨穴さん、そしてオモコロ出版、ありがとう!
  • 2026年10月5日
    トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー
  • 2026年10月5日
    変な絵
    変な絵
  • 2026年10月2日
    消滅世界
    消滅世界
  • 2026年10月2日
    愛がなんだ
    愛がなんだ
    あまりにも表紙がかわいかったのでジャケ買い。 読んでいてこんなにイライラする話は初めてだった。 話がつまらないとか文章が下手だとか、そんなことはまっっっったくない。むしろ逆で、すごいものを読んだと思う。あまりにも軽妙かつ精緻な文体で、主人公のテルコちゃんがどこまでも片思い相手のマモちゃんにズブズブに沼っていく姿がこれでもかと描かれているからだ。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も「やめなさいそんな男は!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と叫びたくなり、その度に本を閉じて呼吸を整えなければならないほどイラついた。 やめなさいそんな男は!!!!何も幸せにならない!!!!!!!!!!!!!! …と、思っていたのに、テルコちゃんにとってはそれこそが幸せなのだという。 ナカハラくんのように「魔法が解けた」方が幸せだとわたしは思っているけれど、テルコちゃんはそうではない。 相手に必要以上に尽くしてしまう時期は確かに自分にもあったし、そういう時期の恋愛は必ずボロ雑巾になって終わることも世の多くの大人の女性と同じく身をもって知っているけれど、果たして魔法が解ければ大人なのか、幸せなのか。あるいは大人になれば、まともになれば魔法は解けるのか。魔法が解けるのが普通なのか。 ズブズブのテルコちゃんとマモちゃんの前に、雲を払う突風のように現れたのがすみれさん。 すみれさんちで宅飲みする場面だけ、脳内が急に安野モヨコ作画になるほど、すみれさんとその友人は自由でイケてて、陽キャだ。 情けなく従うマモちゃんを見ててっきりテルコちゃんは蛙化するかと思いきや、「かっこよくないのなんか知ってる」上で好きなのだ。 そこまで行ったら愛じゃないか、好きにしろよもう、と思ったところで『愛がなんだ』と、好きにするのである。テルコに言わせてみればテルコのマモちゃんへの思いは愛どころか恋でもない、純然たる執着なのだ。 愚かな恋の魔法にかかっていることを自覚しながら、解かない道を選ぶ。大丈夫か、テルコ、この先。 だって、尽くす恋はお人形遊びと同じだ。振り向かれたいよく思われたい会いたい声が聞きたいという自分の欲望で頭も胸もいっぱいで、その欲望がカマキリの中のハリガネムシみたいに体を動かして、尽くしてしまうのだ。相手の気持ちを思い遣ったり、愛を伝えたりする余地はどこにもない。永遠に穴を掘り続けて、どんどんそこに潜っていくだけ。でも、動き続けなければ死んでしまう片道切符だ。 「普通側」の人間の浅はかな言葉に当てはめれば、結局、テルコちゃんもマモちゃんも、自分に自信がない人間なのかな、と思う。 自分に自信がないから、テルコちゃんは自分に優しくしてくれる人ではなく粗末に扱ってくる人に執着して尽くし続けてしまうし、マモちゃんは自分に尽くす相手を粗末に扱って試し続けるし、それでもやっぱり、明るい魅力を放つすみれさんに惹かれてしまう。光に集まる蛾みたいに。
  • 2026年9月25日
    愛がなんだ
    愛がなんだ
  • 2026年9月25日
    桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)
    朝井リョウが好きだと言っておきながら、デビュー作を読んでいなかった。映画は観たんだけど。 解説の吉田大八さん同様、勝手に「若い人以外はご遠慮ください」を感じて“自分向け”じゃないと決めてかかっていたから。 読んでみるとやっぱり朝井リョウらしいうつくしい比喩表現と、水に浮いた葉っぱを優しく掬い上げるような心理描写が次々と出てきて、お風呂に入っている時のような心地よさを覚えた。 でもなぜかその後の作品より読み味にやや引っかかりがあるのは「まだデビュー作」だからなのか、わたしが「もう大人」だからなのか。 それでも読み進めるうちに自分の17歳の頃と重なってきて(奇しくもバレー部だった。ソフトボール部だったこともあった)、ああこうだった、いつも何かにイライラしたりくだらないことでウケたり、どうしようもないことに必死になって、よせばいいのに抱えようとして、爆発しかけて、踏みとどまって、人に迷惑をかけていたな、と懐かしんだ。みんな、いいなあ。かわいいなぁ。イケてるなぁ。 私立の女子校はカーストが曖昧だから、わたし自身は「上」にも「下」にも通うところがあった。見た目や声のデカさで簡単にクラスの空気を変えられるし、スカートが短いほど、バッグにつけたぬいぐるみの数が多いほど、上手な校則の破り方を知っているほど許されることは多いけど、みんなが好きじゃないものを好きだったり、体育やイベントでヘマをしたり、スカーフがセーラーの背中からはみ出ていたり、ブラウスのボタンを一番上まで留めていたり、ベストがジャストサイズだったり、指定の靴下を伸ばさずにふくらはぎの真ん中で履いていたりすると、気遣いと冷笑を浴びることになる。通っていた小学校も住んでいる街も進学動機も家庭環境も親の経済感覚もバラバラ、でもお勉強はしてきたプライドはそれなりにある「偏差値高めの進学校」だからこそいろんな奴がいて、みんなそこそこ賢いから、「意地悪な奴」はリスクを取ってまで誰かをいじめて楽しむことはしない分、突き放したり遠くで揶揄ったりする。本人に聞こえないつもりでキツめの悪口を言っちゃうようなバカなこと、思慮浅めの高校生なら一度くらいしてしまうだろう。昨日まで一緒にお弁当を食べていたのに、ちょっとした失言ひとつで次の日からほんのりハブられたりする。したし、された。わけのわかんないことで呼び出されて絶交を告げられたりとか。すぐ別につるむ子ができて「中学生かよ!!キモ!!」と笑い飛ばしたりとか。シンプルにわたしの性格が悪いから、シンプルに性格の悪い友達しかできなかったんだろうか。でも、そうやってなんとなくイライラ、モヤモヤ、きゃらきゃらしていたら大学受験を迎えている。メイクが濃くて思慮の浅そうに見える子が実は何かを抱えていたり、スカートが長くて髪もひっつめでイケてなさそうに見える子ほど青春をエンジョイしていたり、そういう「ひかりの中の闇」「闇の中のひかり」は確かに、あの頃の学校の中にはたくさんあったような気がする。高校を卒業したての朝井さんが、「ついさっきまであったものの姿」をまるで写真のように描き出した息遣いがあるように感じた。 それにしても、映画と全然違うな!? 全然違うのにどっちもいいってどういうこと!? でも主人公を決めろって言われたら確かに前田くんしかないね!! あと東出昌大こんな大事な役だったの!? でも松岡茉優をシンプルキツめ上位女子にしてくれてありがとう! 映画を観た時はリベロがキャプテン?と思ったけど、確かにルールが変わっていたような気がする。
  • 2026年9月22日
    Dr.STONE 27
    Dr.STONE 27
    小3の娘が大好きで、夏休みにTenQの月面旅行に行った流れで娘に借りて1巻から読破。本誌で連載が始まった頃に読んでいて「何これ!?どうなんのここから!?」とハラハラしていたもののアメリカ到達くらいでなんとなく離れて忘れてしまっていた。 いや、面白……!!!! 宝島くらいまでが一番ワクワクした。人類の歴史を一歩一歩、科学というより世界史の教科書を1ページずつ手繰るように歩んでいきながら「賢いやつも知識がないやつも力があるやつも器用なやつも男も女も大人も子供も体の弱い人も欲張りも悪いやつも、みんなみんな歴史に欠かせない大切なひとり」と、何度も何度も教えてくれる。一年生の頃の娘に与えてよかったと思えるくらい、科学知識だけじゃなくて人間として大事なことがたくさん書かれている。スイカちゃんがひとりぼっちになってしまったところは泣いてしまった。コハクに抱きしめてもらえてよかった。あんな小さい子が………がんばったね………。 アメリカ組が出てきてからは物理、化学、医学だけじゃなく地学や数学の専門家も出てきて少年漫画らしいチート展開により物語が加速して、最終的には「そんなことある!?」で終わったけど………読者の考察を唆りつつ、綺麗でかっこいい終わり方をしてくれてよかった。個人的には「復興後、未来の千空が残したAIが時を経てホワイマンになり、死にゆく人間を儚んでタイムマシンを使い(当然完成しているものとみなす)、過去の地球に石化光線を放った」タイムリープ説を推す。BTTFとか、好きなので。千空がいつかお父さんに会えますように。 惜しむらくは、唯一の「国語担当」だったゲンがだんだんただのお母さんポジになっていってしまったところ。言葉も人類が生み出した文明の1つでしょうよ。 七海財閥3人組が好き。
  • 2026年9月14日
  • 2026年9月14日
    チア男子!!
    チア男子!!
    朝井リョウが好き、と言っておきながら、『何者』以降の長編ばかり読んでいた。そもそも『何者』の鋭い言葉と、本の中から手が伸びてきて「お前のことだよ!!」と怒鳴りつけてくるような読後感に感服して震え上がって以来、『死にがいを求めて生きているの』では目的と手段が逆転する人間の脆さを身につまされる思いで読んだし『スペードの3』ではどうしてこんなに女を描けるのだろうと震えたし、『正欲』ではどちらかといえば公平で理知的だと思っていた自分自身の浅さと愚かさと傲慢さを思い知らされたし、『生殖記』は自分の中にある怒りや悔しさをそのまま言葉にされていた。長編ではないが『ままならないから私とあなた』の言葉選びのうつくしさに固まってしまった。そしてエッセイ3部作で赤裸々にうんこをもらしたことを書いており、「のうみそが2つある!!この人!!」と衝撃を受け、大好きになってしまったのだ。今でこそSNSでチッケムが(本当に何?)バズったり作品のみならずご本人も人気を集めているが、私は朝井リョウ古参、古参なのである。バズる前からずっと彼の文章をこんなにも愛しているのである。直木賞の候補になった頃から!!獲る前から!! でも、朝井リョウとの出会いは大学一年生の秋。同じ大学の同じ学部の先輩に有名な小説家がいる、というのは知っていたが、何を書く人なのかは大学の購買で平積みされた『チア男子!!』を見て知った。うちの学生なら知らない人はいない、あのチャラくてすごくてなんだかイケ散らかしている男子チア部のことを書いた小説とのことで、当時は「フーン」だった。小説家くらいいるだろ、うちの大学なら。ああ、『桐島』の人、うちの先輩なんだ。読んだことないけど。へぇ、ショッカーズのこと?ショッカーズの人なのかな(違う。ダンスサークルである)。 19歳のインテリ気取りのイキった冷笑バカ娘だったわたしをぶん殴りたい。でも、19歳のインテリ気取りのイキった冷笑バカ娘だった当時にこれを読んでも、何一つよさはわからなかっただろう。 とにかく、眩しい。感動して、とか、悲しくて、とか、よかったね、とかではなく、ただただ眩しくて涙が出る小説を初めて読んだ。淡クリームキンマリの紙に黒い明朝体のはずなのに、すべてのページがぴっかぴかに眩しい。目が潰れるほどに輝いている。『何者』『正欲』のような、心に暗いものを抱えた人がこちらに語りかけてくるのが朝井リョウの作風だと思っていたのに、これは底抜けに前向きだ。ほぼ『ハイキュー!!』だ。 1つの競技に真摯に打ち込む大学生の、本気の楽しさ、焦り、嫉妬、信頼、悲しみ、見栄、向上心、悔しさ、恋心、友情、努力、勝利。なんであの歳で、こんなにも瑞々しく若者の心が描けたんだろう。著者がリアルに大学生だから、という理由では説明できないくらい、生の大学生の青臭くて泥臭くてまっすぐで素直な心が470ページずっと、これでもかと連なっている。19歳のわたしはこれを読んでも泣けなかったはずだ。まっすぐにありのままの19歳たちの物語すぎて、当事者にとっては「普通」すぎて、何も感じられなかっただろう。どうしてこれを21〜2歳で書けたんだろう。 正直、物語はシンプルだ。「新しく部活を始めて仲間を集め、頑張って全国大会に出る」という王道中の王道で、特別な展開も驚くような仕掛けも読者の価値観が揺らぐような「朝井節」もない。序盤はどちらかと言えばキャラ小説的(絶対に最初からアニメ化を狙ってただろ、と思うくらいアニメっぽいキャラの立ち方をしている)だし、エッセイの時のようなちょっと恥ずかしくなるような軽妙な言葉回し(「〜」とか「❤︎」とかを多用して、特に意味のないダジャレや下ネタが出てくる)が目立つし、小さな叙述トリックが朝井リョウらしいといえばらしいが、『何者』ほどの衝撃はない。でも、だからこそ、「朝井リョウの文章の技」が際立って味わえる。10行に1回くらいのペースで挟まれる独特かつ鮮やかな比喩表現とか、身体感覚を巧みに織り込んだ心理描写とか、1行1行がとにかくリアルで、生々しくて、体験的なのだ。30代の大人なのに、深夜の通勤電車の中なのに、読んでいると19歳に(しかも男子に)なってしまう。 リアルにあの大学で18歳からの4年間を過ごしていたときはわたしも「仲間と人前に出る」というのを本気で真摯にやっていた。飛んだり跳ねたり回ったり歌ったり踊ったり、ケガするリスクを抱えながら、バイトをしながら、授業に出ながら、それでも自分たちが本気でパフォーマンスすることが誰かの心を動かせると、本気で信じてやっていた。本気でぶつかって本気で悔しくて泣いて、一回の本番ごとに「これで死んでも悔いはねえ」と本気で思って、本気で命を燃やしていた。就活でも将来の仕事でもなんの役にも立たないことなのに、そうとわかって、命を使わずにはいられなかった。本番中のどこまでも飛んでいけそうな快感、仲間と目が合う安心感、終わってしまう寂しさ、本番前の震えるような高揚感、練習中の衝突や歪み、何度やってもできないことへの絶望感、成功した時のむしろ戸惑う感覚、家族の「わかってくれない感」へのフラストレーション、練習後のお酒(「金色の二酸化炭素が、喉を暴れながら滑走していく。」この文章よりも練習後のビールの美味しさを表せる文章なんてないと思う!)そして一年生の春、「そこ」へ足を踏み入れた時の「なんか、変わりたい」という漠然とした希望。わたしのこれまでの人生で一番必死に輝いていた、一番バカだった、一番クズだった4年間を、全部全部、朝井リョウが書いていた。2010年に。刊行が2010年ということは、わたしがまだ何も踏み出していない時点で既に、朝井リョウは全部書いていた。たった2学年上の先輩が書いていた。どこからどう見ても母校すぎる描写とか、ハルのバイト先が学生バイトの定番のあの店だとか、絶対に文学部キャンパスの近くのあの公園だとか、学祭のステージだとか、そういう細かさも相まって、「19歳、大学生、男子チア部の俺」が自分の中に「再現」されてしまうのだ。 いい小説は、読んだ人が「これは私の小説だ」と思うことができるらしい。それならこれはまぎれもなく、わたしの小説だと思わせてくれた。大人になってから読んでよかった。
  • 2026年9月7日
    チア男子!!
    チア男子!!
  • 2026年9月5日
    ババヤガの夜 (河出文庫)
    流行りに流行っていた時「ババヤガってなんだ?ジジヤガもあるのか?」くらいにしか思っていなかった。スラヴの伝承に登場する恐ろしい老婆のことらしい。ヤバいババアじゃん!似てる!外国語なのに!日本人初のダガー賞を受賞して文庫化されてようやく食指が伸びた。 ミステリじゃない。のに、ミステリ。映像化不可能系ミステリ。 あまりにも読みやすく、2時間かからずに読破(通勤電車の中でしか読まない)。どこからどう見てもミステリ小説ではない。映画で言えばノワール、漫画で言えば青年誌向け、早い話がヤクザもの。なのに、どこからどう見てもミステリの要素をここぞというところでドカンと使ってくる。まさに暴力的なまでに、後半で一気に畳み掛けてくる。『十角館の殺人』とか、『葉桜の季節に君を想うということ』とか、どんでん返し系ミステリ名著の重みでドカ、バキ、グシャ、と3連打くらいされる。しかもそれが「驚かせるためのどんでん返し」じゃなくて、ちゃんと主人公たちにとって必要な道筋になっている。あんまり言うとネタバレになるからよくないかもしれない。 冒頭から結末まで、暴力に次ぐ暴力、血、血、血。暴言、暴言、暴言。主人公は殴って蹴って食う。つよすぎる。刃牙のような女。そしてどの場面も体の動きやカメラワークまで瞬時に脳裏に浮かぶ。鮮やかでなめらか。文字がぎっしり書かれているのに、ONE PIECEとかBLEACHとかの戦闘シーン(大ゴマと効果音がメインの回)を読んでいるようなスピード感のアクションになって頭に入ってくる。これは一体どういうことなのか? そしてパワー系のシスターフッド。百合なんてもんじゃない、女同士の複雑なクソデカ感情とかでもない、ただ女と女であるだけで、ただそこにいるだけ。だけどそれこそが、愛だの恋だの憎しみだのよりずっとずっと強い関係になっている。人と人が深く強く寄り添うときって、実際にはこういう不可抗力めいたものがある気がする。愛や友情は後から生まれるんだ、きっと。 「こりゃダガー賞だわ」「厳密にはミステリではないと思うけど、そのへんのミステリよりはミステリだね」と偉そうに納得したけれど、柚木麻子さんの『BUTTER』といい、イギリスでは最近女性の解放やシスターフッドが流行りのテーマなのだろうか。大好物だけど。 1つネタバレをすると、犬は死にません。
  • 2026年9月1日
    ババヤガの夜 (河出文庫)
    本屋で見かけるたびに「ジジヤガの朝…」と思っていた。やっと読む。
  • 2026年9月1日
    漫画でイけ
    漫画でイけ
    『二月に殺して桜に埋める』の毒気がクセになっていて、まさかの小説も書かれるの!?と驚き発売日に即買い。おそらく女性で、九州地方出身で、高学歴で、毒親育ちで、性格がすこぶる悪い方なのだろうと踏んでいたが、おそらくきっと大当たりだろうな、と確信した。実在の著名な作品名が登場したりして、「芥川賞と直木賞くらいは押さえてますけど、別に読書家とかではないですよ」みたいな、「ガチの頭いい人」の気配を感じた。失礼かもしれないけど、片手間でもいろんなことが人並み以上にできるタイプの方なのでは…あるいは死に物狂いで努力していて努力の重さを感じさせないタイプか。いずれにせよ強制的な狂人で天才だ。 『漫画でイけ』(すごいタイトル)も『僕の血』も、まだ才能が(本人にすら)見つけてもらっていない、創作しなければ生きていけないクズの天才の話だと思う。大好きな『Artiste』という漫画で(漫画は「食」「仕事」を描いたものが特に好きだからこの漫画はかなり好き)小説家のキャラクターが「幸せに満ちた作家なんて書くことなんもないよ」「幸せな奴が書いた文章なんてきみ読みたいと思うのかい?」「スコーンにコンフィチュールを合わせて珈琲と頂くなんて作家がしていいことじゃないんだ」と出されたおやつを堪能しながら苦悩するシーンをよく思い出す。でも一方で、わたしの大好きな小説家の一人である朝井リョウさんと西加奈子さんは「(書きながら)この話どうでもいいって思う時ある」「嘘やし」と言っていたのも思い出す。 創作はすべからく嘘、嘘団子でありながら、その材料は創作者の傷口から滴る血で、永遠に治らない傷口から汚物を搾り出し、捏ねくり回して装飾し、読者の口に捩じ込むものだというのが「鳩太郎」先生。他人様の下着を無理やり引き摺り下ろし、或いは下着の中を覗き見て仔細に、面白おかしく、美しく書き立てて無許可で世間に晒すものだというのが「ツグミ」先生。どちらもきっと正しくて、世の多くの創作者がきっとやっていて、きっと天才と称される創作者ほどその有害性に目を瞑るのが上手い。でもこの本の主人公たちは二人とも、目を瞑れない。自分の、創作そのものの持つ有害性を直視してしまう。その苦しささえ快楽と血に変えてさらに作品をどす黒く輝かせていく。あまりにも詳細に性格が悪いから、きっと鳥トマトさんがこうやってバズったり、炎上したりする漫画を生み出せるようになったんじゃないかと邪推してしまう。 それならわたしが今こうしてツラツラと書き並べている感想のようなものも、もし目に入ったら「うるせぇバーカ」と思うんだろうな。 小説の中の劇中劇として漫画が出てきたり、読んだ人が何も言えなくなるような構造をしていたり、私小説感満載だったりと、カテゴリ分けするなら純文学だと思った。 鳥トマトさんの漫画でよく出てくるモノクロなのにサイケな雰囲気とか、突拍子もない擬人化とか、傷ついている場面でのやたらハイテンションな振る舞いとか、文字だけで表現すると「やっぱあの表現って狂気なんだな」と再発見した。漫画が挟まっていることにおもしろさやお得感だけじゃない意義があるのは、一人でどっちもかける人ならではのすごい強みかも。
  • 2026年8月28日
    漫画でイけ
    漫画でイけ
  • 2026年8月27日
    カフェーの帰り道
    1つのカフェーを舞台に行き交う女たちの戦前〜戦後の生き様の物語。よくある群像劇短編集なんだけど、一話一話進むごとに時間も流れ、平和でちょっとハイカラ (?)なカフェーとその周囲の人々に戦争の影が忍び寄ってくる。時代の大きな流れの中にありながらも、家族がいて仕事があってコンプレックスがあって、それまでの人生とこれからの人生があり、みんなが同じように歳を重ねていく。 いつの間にかそれぞれの主人公の人生に寄り添うように見守っていて、点と点が少しずつ繋がっていくうちに、新たな点が現れたり、通り過ぎた点をまた通ったりすることを期待させられる。タイ子さんの息子の豪一くんなんて小さい頃から見守ってきたような気持ちになって、タイ子さんと一緒になってハラハラ手紙を読んでしまっていた。美登里ちゃんの再登場時が一番驚いた。そこに落ち着くのね。 『カフェーに行く道』ではなく『カフェーの帰り道』なのは、あくまでもカフェーは一つの職場であり、元職場であり、溜まり場であり、本当の帰る場所はそれぞれが持っていて、たまたまカフェー西行で女たちが行き交ったから、なのだと思う。 大正〜昭和の物語としては、文体までリアルな造り込みはないものの、ところどころの固有名詞や言い回しに時代を感じられた。タバコが大事なアイテムになってるのもいい。直木賞受賞の決め手が何かはわからなかったけれど、少なくとも直木賞に値しない作品ではなかったと思う。
  • 2026年8月18日
    カフェーの帰り道
  • 2026年8月18日
    ゾンビ回収婦
    ゾンビ回収婦
    現実とVR、人間とAI、公と私、愛と呪が境界を失っていく話。両者はコインの裏と表で、どちらがどちらでも同じことだし、どちらがどちらかは誰にも証明できない。 子供の頃、この世界は本当にこの世界なのか?と考えて頻繁に怖くなっていた。例えば夜空の星は、この世界を覆う黒い大きな布のようなものに神様か巨人の子供のような誰かが開けた覗き穴で、この世界は1つの大きなドールハウスなのではないか。それを「違う」と証明できる人はドールハウスの内側にはいないはずだ。ママもパパも弟も友達も先生もテレビの中の人もみんな私に嘘をついていて、私は存在しないのではないか。私が私で、私の知る世界が私の知る世界であることをどうやって証明すればいいのか。誰が保証してくれるのか。この世界は壮大な茶番なのではないか。だって何もない空間にある時突然大爆発が起きて、そこから小さな生物が何億年もかけてゆっくり変わっていって、人類が生まれ、文明を発達させて何世代も繋がってきて今があり、その歴史を少しずつ自分たちで解明して、伝えていっただなんて、そんな奇跡、起こりえるのか?あまりにも奇跡的すぎないか?そしてそんな連綿と繋がる奇跡の中に自分がいるだなんて。話ができすぎてないか? それを伝えても誰も共感してくれないのが余計に「やっぱり感」があって、更に怖がっていた。その時の世界観が今も空想したり物語を味わう時には割と役に立っている。ロマン的なものに昇華されている。 大人になってもついぞ証明はできないまま、その薄らとした恐怖は小さく抱えたままママになり、「茶番だったとして、それでいいじゃないか」「茶番の中で、最善を尽くそうじゃないか」「だって死んでもわからないんだから」と開き直れるようになった。でも、茶番が茶番であると、ある日突然明かされてしまったら?夜空を覆う黒い大きな布が取り払われてしまったら?取り払えるとわかってしまったら? 今日も12時間やってきた大好きな仕事が私や家族のためのものでなかったら? 愛する家族が虚構だったら? ママやパパがくれた大切な教えがただの呪いだったら? 私が仕事に求めるのは「お金」と「おもしろさ」だけで、そこに「わたしの存在意義」は求めない。「わたしの存在意義」は家庭の中にあって、愛の中にあると、今の家族が教えてくれたから。仕事で誰に称賛されなくても、誰に認めてもらえなくても構わない(だって私の仕事はわりと難しくて誰にでもできることじゃないから。こなしているだけで必死で余計なことを考える余地がなく、毎日終わる頃にはたいてい満足できるから)。でも、私よりいい仕事をする人はいくらでもいるし、少し頑張ればたくさんの人が私の代わりになれてしまうし、私が欠けた程度で回らなくなる仕事なんてあってはならない。 じゃあ、それも嘘だったら?出会えなかったら?私はどうなっていた?今も時々わからなくなって家族を困らせたり、一人で落ち込んだりしている。 仕事に、両親に、愛に何度も疑問を抱いて、その度に「それでいいじゃん、そうなんだから」と開き直ってきたからこそ、「わたし」の怖さが大きく見えた。 私はこっちで「あなた」を見つけられたけれど、「わたし」はまだ探していて、やっと見つけられたんだ。それがたまたまこっちの世界にはなかっただけで。「わたし」は別の世界線の私なんだ、きっと。 こういう揺るがされるような小説は大好物だ。この人の他の作品も読んでみたいと思った。 それはそうと、ゲームの世界のNPCになる設定は実際に可能なんだろうか。現実かゲームか曖昧にしていた最後は結局、どういうことなんだろうか。精神世界?妙にリアルな分、そのファンタジー部分だけが気になった。 あと、この作品が芥川賞を獲れたのはAIとかVRとかゲーム依存とかのテーマが「今っぽい」と評されたからなんだろうな。そのテーマはこの作品の一番の本質じゃないと思うけど。
  • 2026年8月13日
    ゾンビ回収婦
    ゾンビ回収婦
  • 2026年8月9日
    ハッピー山
    ハッピー山
    終始わけがわからなかった。 前作もだけど、うんこゲロ流血言い過ぎでは?リズミカルなインターネット文体に下品な単語を羅列しつつ、元舞台人の著者の経歴を活かして、(おそらく発達に特性のある)主人公の太宰的なコンプレックスや苦悩、自認と現実のギャップを絡める新しさはあるが、2作連続、舞台を変えて同じことをしていてはいずれ枯渇する気がする。ハイテンション出オチ文学。次は買わないかな………
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