“さしずめ、〈緋色の研究(ｱ･ｽﾀﾃﾞｨｰ･ｲﾝ･ｽｶｰﾚｯﾄ)〉なんて、どうだろう。ぼくらがちょっとばかり美術用語を使っても、悪くはあるまい？人生という無色の綛糸のなかに、殺人という緋色の糸が一筋まじっている。そしてぼくらの務めというのは、その綛糸を解きほぐし、分離して、すべてを白日のもとにさらけだすことにあるのさ。”

“母屋と納屋をむすんだ線の中点から私道の方に垂線をのばしていくと、その道が赤茶けたレンガ造りの隧道の下をくぐる。上は旧国鉄の線路になっていて、列車が通るたびにその二本の鉄の平行線を踏まれてがたごと鳴り響き、アーチ型の天井からいっぱいに音が降ってきて乱反射したようになるのだが、静かなときはまたかくべつに静かで、空に音が吸われていくような印象を受ける。” 「トンネルのおじさん」より

“「パチンパチンやる入場券がないけど、それでもあなたはかまわないの」 「かまわないさ。やりたきゃ、空気をパチンパチンやるよ」 それからメリーゴーラウンドの中にはいっていって、「魔法の家」からとってきたお月さまに火をいれました。それからフィリフヨンカさんのハンモックにねそべったまま、天井にあいているあなから、星を見ていました。” 「しずかなのがすきなヘムレンさん」より

“夏の間、休みなく 歌を歌ってすごしたセミは、 北風がぴゅうと吹きはじめると ようやくすっからかんだと気がついた。”

“この言葉この言葉こそ恐ろしい 三度云ったら現実になる”

“よろしいか、あたしらがみな夢を見ているだけで、ああいうものがみな ー つまり、木々や草や、太陽や月や星々や、アスランその方さえ、頭のなかにつくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。 たしかにそうかもしれませんよ。だとしても、その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるということでさ。あなたの王国のこんなまっくらな穴が、この世でただ一つじっさいにある世界だ、ということになれば、やれやれ、あたしにはそれではまったくなさけない世界だと、やりきれなくてなりませんのさ。”

“さあっと風がまきおこって、雲をおいはらい、雨にぬれて重たくなった木のえだをゆらします。荒れくるっていた水もしずまり、どこかで鳥が一羽さえずっています。”

“王子さまはうしろで何かが破裂するような、大きな音を聞きました。そこでふりむいて、こう叫びました。「ハインリヒ、馬車がこわれたようだぞ」「いいえ、御主人さま。馬車ではございません。私の心臓のわっかです。あなたがカエルとして泉にとらわれの身でいらしたあいだ、悲嘆のあまり心臓が破裂してしまわないように、私はわっかをはめておいたのです」”

“今日は妻が親戚のお葬式に出かけていません。夜御飯はひとりでオリジン弁当です。 ー中略ー オリジン弁当には、量り売りのお惣菜コーナーがあるのです。「肉じゃが」のにんじんばかりを選んでとっていたら、プラスチックの透明容器がオレンジ色になりました。「肉」も「じゃが」もない「肉じゃが」です。でも、これだけにんじんを食べればカロテンは安心。僕もけっこう料理上手だなと思いながら、オレンジ色の「肉じゃが」をレジにもっていくと、店員さんの瞳孔が少し開きました。” 「妻がいない夜の御飯」より

“霧のカーテンは消えていて、空では雲が切れたらしかった。星がきらめいていた。 ホームズはインバネスの中からパイプをとり出して、たばこをつめて、マッチをすったが、つづけて四本すっても、火がつかなかった。それにマッチがなくなってしまったので、彼は立ち上がって、数歩はなれたところに腰かけているひとりの紳士に声をかけた。 ー中略ー 紳士は耐風マッチの箱をあけて、すった。すぐにほのおがもえ上がった。その火のおかげで、ホームズには相手がアルセーヌ・ルパンだということがわかった。”

“「さあ、君、ジャン・ダスプリにさよならを言うといいよ」 「え！」 「そう、ジャン・ダスプリは旅にでる。そうだ彼をモロッコへいかせよう。あそこにいけば、きっと彼にふさわしい目的が見つかるだろう。彼もきっといきたがっているだろうよ」”

“草陰に 近づくと　夜露のように しっとりと 横たわっていたのは 紛れもない　ユニコーン 夜露だと 思ったのは　ユニコーンの なみだ”

“ふかいふかい海の底には、壁が水晶ででき、屋根は、いちばん美しい貝がらでできている、王さまの御殿があります。 中略 そして、いちばんすえっ子の、いちばんかわいいさざなみ － あの青い目をした、銀のまき毛のウンダ・マリーナも、住んでいるのです。ウンダ・マリーナは、岸べの砂の上であそびながら、銀のくつのつまさきで、美しい波のすじをかきます。”

“ねむれ いとし子たち 空は黒く いくつもの 流れ星さまよい そのゆくえを知らず ねむりて ゆめを見 さめては ゆめをわすれよ 夜は近く 大空は寒い 百もの子ひつじ 大空の牧場をさまよう”

“そうそう、この村は、やかまし村っていうんです。それは、とってもちいさな村で、家はたったの三軒だけ、…北屋敷に、中屋敷に、南屋敷だけです。そして、子どもは六人だけ、…ラッセに、ボッセに、わたしに、オッレに、ブリッタに、アンナ。これだけです。”

“それからみんなは、太陽が海にしずんでいき、夕ばえの色が青とむらさきにかわっていくのを、ことばもなく見つめました。そのあいだにも冒険号は、しずかにゆれながら、家のほうへ進んでいくのでした。”

“ときにはまた、渚までおりていって、波とたわむれもしました。足もとすれすれまでよせてはかえす波の動きにつれておどるのは、リュシラの何よりすきなことで、見守る人びとの目には、さながらむすめと波とがひとつにとけあったように見えるのでした。” 「風の妖精たち」より ※岩波少年文庫の創刊40周年を記念して1990年に出版されたウィリアムモリスの絵柄の特装版を入手して読んだ

“粒子の細かい霧が自身の重みに耐えきれず下へ下へと落ちてくるうちにいつのまにか水の柱をつくり、それが完全なかたちとなるまえに雪まじりの土を打ってはじける春先の雨は、土地の者ならだれでも聞き分けることができるものだが、その日の音はいつにもまして静かだった。” 「イラクサの庭」より

“日記って、書いてる時は小さな水たまりのような記録でしかないけど、後から読み返すとちゃんとそこそこ眺めのいい川になっている。 ー中略ー 駅から自宅までの徒歩何分間だかを楽しめる日々ってあるし、そんな感情を人は作れる。” あとがき より