本居宣長
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うーえの🐧@tosarino2026年5月5日読み終わった⭐️⭐️⭐️ 【論理や正しさで息苦しい現代へ。本居宣長が遺した「共感の倫理学」とは】 「本居宣長」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。歴史の教科書に載っている小難しい古典学者? あるいは復古的で排他的な思想家? もしそんなイメージを持っているなら、先崎彰容著『本居宣長――「もののあはれ」と「日本」の発見』(新潮選書)は、あなたの先入観を鮮やかに覆す、最高にスリリングな読書体験となるはずだ。 私たちが生きる現代は、グローバル化による普遍的な価値観や、過度な合理主義、そして「正しさ」で白黒をつける息苦しさに満ちている。実は、宣長が生きた18世紀の江戸中期も同じだった。当時は、儒教的な勧善懲悪や、理屈で真理を断定しようとする外来のイデオロギー(漢意・からごころ)が社会を覆っていた時代である。宣長は、その「剛直な理屈」に対して真っ向から異議を唱えたのだ。 彼が武器としたのは、正論ではなく「感情」だった。和歌や『源氏物語』に描かれるような、人間の弱さ、悲しみ、そして何より道徳では割り切れない「恋慕(色好み)」の情。宣長は、理屈で感情を抑え込むのではなく、心が激しく揺さぶられることこそが人間の自然で美しい姿だと全肯定した。 そして、「もののあはれ」とは個人の内に閉じるものではない。他者の心の揺らぎに寄り添い、感情を分かち合う関係性の中にある。著者はこれを「肯定と共感の倫理学」と呼ぶ。なんとも人間臭く、温かい思想ではないか。 本書の最大の白眉は、宣長が「男女の恋愛」や「私的な悲哀」という極めて個人的な感情の延長線上に、「日本」という国家の輪郭を見出したと指摘する点にある。契約やイデオロギーで縛り上げるのではなく、同じ「あはれ」を共有し、共に心を震わせる感情の連なりこそが共同体のベースになる。それは、私たちが想像しがちな戦闘的なナショナリズムとは対極にある、しなやかでオリジナルな国家観だ。 私たちは今、外部から輸入された「正しさ」の枠組みの中で、自分自身の本当の感情の揺らぎを見失ってはいないだろうか。 本書は、単なる思想史の解説書ではない。人間本来の脆さを認め合い、他者と共鳴することの価値を再発見するための、現代人への力強いメッセージである。行き詰まりを感じるすべての人に、そして「感情」が持つ本来の力を信じたい人に、ぜひページをめくってほしい。宣長の「もののあはれ」が、あなたの心を静かに、しかし確実に揺さぶるはずだ。
ジクロロ@jirowcrew2026年2月23日読んでる"どれほど契沖が「やまと」を讃えても、その理論的支柱は、あくまでも「西側」を基準にし、日本書紀を参照してしまっている。では宣長にとって、「日本」の奥底に潜む原風景、太古の日本人が眼にしていた世界とはどのようなものだったのだろうか。それは「山処(やまと)」であった。 …… 古事記にある倭建命の歌を参照すると、青山に囲まれた、とてもしずかな国が見えてくる。穏やかな稜線の山々に懐深く抱かれた国こそ、「山処」という響きから吹いてくる古代の風である。" (p.297) 日本、「やまと」の語源は「山処」であったという 宣長の説。 "『坑夫』を最後に、しばらく(夏目)漱石は山登りを描かなくなった。『草枕』で山を降りる青年を書いた漱石は自然という桃源郷に見切りをつけ、都市社会のなかで生きる人間を書こうとした。『それから』、『門』、『彼岸過迄』といった作品は、そうした自然なき人間社会のなかで生きるための意識を獲得しようとする漱石の挑戦でもあった。 (『生成と消滅の精神史』(下西風澄)p.374 第6章 「夏目漱石の苦悩とユートビア」) 日本においては歴史の変わり目で「山」を失う。 山から降りて、フラットな社会に順応しようと 試みるが、神経を病み、しまいには山へ還る。 原風景を失った者の「行く末」は、原風景であるということ。
ジクロロ@jirowcrew2026年2月13日読んでる宣長が取り戻そうとしたのは、裁断され、切り刻まれる以前の日本人の肉声、すなわち太古の息吹をたたえた「もののあはれ」に基づく人間関係にほかならない。 (p.299) 古文と漢文を学校教育で学んでいたとき、朗読したときの印象として、前者はしんなり、後者はかっちりとしていたことを喉が覚えている。 連続的なものはしなやかで、断続的なものは硬くてどこか格好良い。 これは音節のみならず、あらゆるものの印象に通ずるものではないか。 本来の肉声が言語化されるとき、外来の文字(漢字)により、図像的な断続性とともに、本来の「響き」に、「意味」というものがノイズという形で付加されてしまったことを宣長は嘆き、本来の「肉声」を考古学的に複製しようとしていたこと。 「太古の息吹」に意味を付加し、歴史的なものに仕立ててきた作為は男性的であり、「生きている」という実感、「ああ」というような具体的な意味を伴わない感嘆が、女性的であり、古来の「うた」(于多)のはじまりであったということ。 「格好」は外皮であり、「うた」こそが身体であるということ。 「うた」は、言葉(文字)により間接的にあらわされる死物ではなく、肉声により運ばれるものである生きた(生きている)ものであるということ。 なんか、読んでいて身体の余計な力が抜けていく感じがする。これもひとつの「理解」のあらわれなのだろう。
ジクロロ@jirowcrew2026年2月12日読んでる源氏物語は何からできているか。それは紫式部の柔らかな感受性が傷つけられたことでできた文学ではないか。母と夫をうしない、公的価値の体系から外れたのちに、物語によって朝廷から召されたことは、式部をいささかも安堵させなかった。事態は逆であって、世間的出世はしずかな式部の生活をかき乱し、一層の苦痛をあたえたのである。 (p.291) 傷から生まれた光(源氏)。 傷は治ろうとする、しかし以前と同じ恒常性は得られない。 「卿、朕と源を同じくす。事に因って姓を分ち、今、源氏となすべし」 (『魏書』) 傷から生まれ出たものは、傷を癒そうとする。著者から生まれた人物は、元には戻らない傷を忘れさせるために、自然のままに振る舞う。 光の源は、傷であるということ。










