万延元年のフットボール
45件の記録
しがない@ooe2026年5月23日読み終わった「最初から最後まで一体何を見せられているんだ?」 顔を真っ赤に塗って肛門に胡瓜を入れて縊死した友人だの、チョウソカベだの、スーパーマーケットの天皇だの。この作品はそのシュールさと、大江の真剣さを楽しむ作品だと思う。 読んでいて立川流の落語を聞いている感覚に近い。 内容と評価は如何ともし難い。 弟の兄への憧れと認められたい感情、アンビバレントな態度、そして贖罪なのだろう。兄が大人すぎるがゆえに、結局弟は見離されてしまった。馬鹿らしいとでも言うような冷笑的な目が全てを突き放している。しかしそれが現実なのだと思う。現実に生きれば夢はすぐ覚めてしまう。そんな構造がこの作品にはあった。 そしてこの作品を評価している人間に対してはなんとも首を傾げたくなる。 読んだ後には「結局なにがいいたかったんだ」と言わざる得ない。だから一考した上でレビューを見るのだが、どうにもそのレビュアーたちは具体的に何がよかったかを言おうとしない。 その韜晦的で手放しな評価は、ただ読み終わった自分に自惚れているだけではないか。 本当にいい純文学は評価がくっきりわかれるものだと思う。大江天皇に陶酔し屈服する彼らを許すな。
かんじ@kanji2026年5月12日読み終わった初読時は本当に凄い衝撃を受けた。ただ改めて読み直してみると、「この時の大江、筆が乗ってるな…!」という感想に留まった。 後期〜晩期の大江作品は読むたびに深い感動があることを思うと、万延元年の頃はまだ作品がエンタメの範囲に収まっていて、彼の文学自体は発展の途中だったんじゃないかと感じる。 とはいえ異次元レベルのエンタメ作品であることは間違いないし、本当によく出来ている。願わくは、そろそろ万延元年を「乗り越え」る国内の娯楽小説が生まれてほしい!
くりーむ@cream2026年5月6日でもわからないんですよ~。鷹四のような生き方 ――或いは、次のように言ってもいい、「苦痛の総量を内部にぴったりと閉じ込めて、外側から覗き込む限りでは物静かに無表情だった猫の眼。その苦悶を自分の身の所有とし、他者に対しては完全に非存在たらしめていた猫の眼。あのような眼をして、自分の内部の地獄に耐えている人間」(p440)―― は、はっきり言って鮮烈な死の美学そのものだとおもうし、抗いがたい魅力・若しくは引力を備えているとおもう。 誰だって(でかすぎの主語)、そういう人生を夢想してしまうとおもうのです。私だって例に漏れず。

くりーむ@cream2026年5月5日読み終わった11章から面白くなります。 【以下ネタバレです。】(通常私は、物語のネタバレについては躊躇を覚えないのですが、この作品については、ミステリー的な側面があるので、ネタバレを注意しました。) さて、最終章では、鷹四が抱いていた曽祖父の弟への印象が、決して間違ったものではなかったことを裏付けるような証拠(地下倉)が発見され、蜜三郎は、鷹四の近親相姦の告白(*)を辱めたことを悔い、「自分たちの地獄を確認し、「本当の事」を叫んでそれを乗り越えた」(p.442)、それは「自分の identity を確認し、自己統一をとげ」(同)ることにほかならないのだと理解します。そしてその一方で、蜜三郎は自分にとっての「本当の事」を見極められないのだ、として己を曖昧で無力なものに感じます。 私はこのあたりに今ひとつ納得いかない感じを持っています。というのも、鷹四の犯した「罪」というのは、司法においてどの程度裁かれるかは別にして、道徳的にかなり許されない類のことであって、蜜三郎がそれを辱めるのは、少なくとも、本文で書かれていた程度のものであれば、流石に文句は言えないでしょう。それでも鷹四を詰ったことを後悔してしまうのは、蜜三郎もやはり、歴史とその解釈・或いは物語に見立てることで現実を解釈してしまう、鷹四の持っていた傾向を共有しているからのようにおもえます。おもえば、「肉体派の娘」の死についても、蜜三郎は、自分の構成した物語を軸に解釈を重ねていくのであり、蜜三郎と鷹四の間に、「肉体派の娘」の遺体が現れることはありませんでした。ここでも、物語が先行しているようにみえます。「物語」というものの魔力が蠢いているように感じました。これは、なにかに己をなぞらえること・一定のコンテクストに倣って行動することのレベルまで抽象化すると、なかなか広い射程を持ちうるとおもいました。 もっと素朴に、蜜三郎の後悔は自殺の神秘化であり、ともすれば、自分の地獄(それはこの作品の中では他人を「殺してしまう」ような暴力の経験!)を所持し、直視し、それでもって自殺するのでなければ、自己の一貫性というものを描けないという考えにも容易に転倒しうるもので、危ういのだ、という言い方もできるとおもいます(尤も、この作品の登場人物に感情移入しきれるひとがどの程度いるのかはわかりませんが)。 妻を「寝取られる」ということについては、もう少し、歴史的な視点を導入してみると、なかなかおもしろいとおもいました。1950年、当時の蔵相池田勇人は「日本はアメリカの妾である」という発言をしています。これに代表されるように、戦後の日本には、日本という国家が女 = 妻なのであり、国民は男 = 夫で、それを寝取られているのである、という構図の言説がしばしばあるようにおもいます(小熊英二『民主と愛国』を読んでの印象なので、どの程度正当化できるのかは定かではありませんが)。すると、このような言葉の慣習に乗っかって、蜜三郎という人物は、戦後の自意識とでも言いうるものの具象化と見えなくもないです。蜜三郎やその周辺のアジア太平洋戦争前後を貫く家父長制や帝国主義(外部に侵入していく運動(それは鷹四や曽祖父の弟の冒険性に通じる)の中に自己自身・その統一性・その保存を見出すヨーロッパの心!(竹内好によるヘーゲル理解を参照))は、そのまま、日本という国家を通底する家父長制や帝国主義を間接的に描写している、と読めるのかもしれません。 もう少し小さな、個別の人間のレベルの話として、(*) のことを考えます。鷹四にとっての「本当の事」というのは、恐らく、単なる近親相姦を超えるなにか、なのでしょう。ここで注意しておきたいのは、蜜三郎に言わせれば鷹四は「本当の事」を言って自分の地獄を直視して死んだ、ということになりますが、どうも鷹四と妹の間の関係をみるとそんな冒険性みたいな話ではないようにおもえる、ということです。鷹四は確かに、妹と性行為をするのですが、それは「欲望と恐怖心とで頭がやられて」いたことによるのであって、その後の「隠蔽」もすべて欲望と特に恐怖心によるもののように見えます。当然、最低なんですけど、これは決して、冒険心とか、或いは自発的な攻撃性によるものではない。むしろ、ここで描かれるのは、そこに存在していた「力関係」を利用している小心者としての鷹四です。このことを考えてもやはり、蜜三郎は物語を先行させてしまっているようにおもいました。 とはいえ、ここに挙げたものは、作品を最後の数章を中心に読むやり方なので、実はもっと前のところを中心にしてみることで、ガラッと印象の変わる理解ができたりするのかな、とおもっています。
オーベルジーヌ@eggplant2026年3月22日読み終わったはじめての大江作品。最初2章くらい、これはnot for meかもしれない…と思って本当に心折れかけたけど、途中からめちゃくちゃ面白く読めた 万延元年から同じ場所で同じような事が起きるのが、音楽記号のダルセーニョみたいだな…と思いながら読んでいた。時間としては進んでいるんだけど、記号が来たら戻ってもう一回始まるみたいな そこから交響曲みたいな感じが近いかも?とも思った。色々なモチーフが変調とか変形しながら少しずつ出てきて、作品としてのクライマックスに向かう感じ 谷崎潤一郎賞を読もうプロジェクト4冊目
Rica@rica_bibliotheca2026年2月3日読み終わった再読したいーーーこの小説は僕にとってまことに切実な意味で、乗越え点をきざむものであったのでした。ーーー ▶︎乗り越え点ーはっきりとした困難を見出して、そこを乗り越えることをやめる・あるいはしかも乗り越えたことによって、対象とのさらに深い結びつきを見出す、という意味ー その意味を少しでも理解したく、本作の前後の作品も少しずつ読んでいきたい. 若かりし大江健三郎の写真も. そのキャプションには「芦屋の伊丹家で(撮影・伊丹十三)」とあり、ちょっと心ときめく.
Rica@rica_bibliotheca2026年1月24日読んでる232頁(7. 念仏踊りの復興)まで読了. この流れは...この民俗学的な描写は...と思いながら読み進めてきたところで、折口信夫が. タイミングがよすぎてニヤニヤ.

- こよなく@funyoi2025年12月4日読み終わった「万延元年のフットボール」ってタイトルがずっと前から好きだったんだけど、難しそうで読むの躊躇ってた。いざ読むと装填されたテーマが飽和状態で、やはり自分の読解力だと手に余る。 「芽むしり仔撃ち」「個人的な体験」と割合同じようなことが書かれてた気がするが、バードが行けなかったアフリカに密は行くんだね、とか、数年前まで大江健三郎は生きてたんだよな、とか、考えてた。


Julio@Julio2024年12月16日読み始めた再読中阿部和重の神町トリロジーを読み終え、久しぶりに読みたくなった。大江の小説は、連作短編集はよく再読するが、この本はたぶん10年以上は手に取っていない。読むのが楽しみ。






























