返さない借り つながる贈与

返さない借り つながる贈与
返さない借り つながる贈与
岩野卓司
朝日新聞出版
2026年2月10日
16件の記録
  • ⭐️⭐️⭐️ 岩野卓司の著書『返さない借り つながる贈与 資本主義を克服する、新しい共同性』は、現代の資本主義社会に対する魅力的な対案を提示している。しかし、贈与の連鎖による共同性の回復を謳う同書のテーゼには、ある決定的な死角が存在するのではないか。ここでは、本書でも指摘されているフリードリヒ・ニーチェが提起した「Schuld(負債/罪悪感)」という概念を呼び戻し、人間が抱える「負債がもたらす存在論的な不安」に焦点を当てることで、本書に対する根源的な批判を試みたい。 【1. 岩野卓司が描く「贈与と借り」の可能性】 本書は、「借りたものは必ず返さなければならない」という強迫観念がいかに現代人を追い詰め、資本主義の際限なき拡大を駆動しているかを精緻に分析している。等価交換の原則に縛られた閉塞感に対し、岩野が提示するのは「返さない借り」という概念である。これは、Aから与えられたものをAに直接返すのではなく、第三者へと渡していく「ペイ・フォワード(恩送り)」の実践を指す。 見返りを期待しない「贈与」が時間差を伴って連鎖していくことで、人々は借りを清算するのではなく、むしろゆるやかな負債関係のなかで新たな共同性を構築できる。岩野の論考は、マルセル・モースらの贈与論を現代的にアップデートし、効率至上主義の資本主義を内側から食い破るような、あたたかいつながりの可能性を描き出している点で高く評価できる。 【2. 贈与の暴力性と「Schuld(罪悪感)」の重圧】 しかし、ここで私が強く疑問を抱くのは、「借り」という状態が人間に強いる精神的負荷である。ニーチェは『道徳の系譜学』において、ドイツ語の「Schuld」が「負債」と「罪/罪悪感」という二つの意味を不可分に結びつけていることを看破した。すなわち、他者に対して負債を負うということは、そのまま実存的な罪悪感を背負わされることと同義なのである。しかも、その負債が根源的に返せないものである場合はどうか。 率直に言えば、私は人から贈与を受けたくないし、また自ら贈与をしたいとも思わない。なぜなら、無償の贈与を受け取ることは、自分が「生きてあることの罪悪感」を否応なく喚起させる重圧であり、ある種の暴力性を孕んでいるからだ。モースが論じたように、贈与とは霊的な力を伴う闘争でもある。 岩野が肯定的に捉える「借りの連鎖」は、このSchuldによる罪悪感と不安のネットワークを際限なく拡張し、永続化させることと表裏一体である。それはある種の人間にとって、耐え難い実存的な息苦しさをもたらすはずである。 【3. 「Schuld」からの逃走経路としての都市と貨幣】 人間は、このような重苦しい負債の感覚(罪悪感)を直視することを恐れ、隠蔽したいと願う生き物であるように私には思われる。この罪悪感からの逃走経路として機能しているのが、他ならぬ「都市」という空間と、「貨幣」を媒介とした取引である。 私が都市に住み、匿名の空間で貨幣経済のネットワークに身を委ねる理由の根底には、ある種の「安心感」がある。貨幣を媒介とした等価交換の取引は、「借り」(のネットワーク)を意識させない。そこには、私に対して負債の感覚を覆い被せてくる生々しい他者の顔が見えないからだ。 (地域)共同体特有のまとわりつくような人間関係や、贈与によるSchuldの喚起から逃れるための「無菌室」として、都市空間と貨幣は完璧に機能しているのである。負債を負うということが常に罪悪感に根差した不安感を持つことであるならば、我々がそこから全力で逃走しようとするのは必然の理ではないだろうか。 【4. 「借り」の論理こそが資本主義の存在論的根拠である】 ここに至って、岩野のテーゼは完全に逆転する。贈与や「借り」の論理は、資本主義を克服するものではない。むしろ、人間が本質的に抱える「Schuld(負債/罪悪感)から逃れたい」という根源的な防衛本能こそが、等価交換というドライなシステム——すなわち資本主義——を強力に要請しているのである。 岩野のように、等価交換を否定し、再び「借り」の論理を人間関係に(新たな意義あるものとして)組み込もうとする試みは、私たちがせっかく都市と貨幣によって隠蔽してきた実存的な泥沼へ引きずり戻す退行に等しい。そして皮肉なことに、その息苦しさを提示すればするほど、「負債による罪悪感を喚起させないシステム」としての資本主義の機能美と存在意義が逆照射されてしまうように思われる。 資本主義は、単なる人間の強欲さだけでなく、Schuldの恐怖から逃避したいという切実な願いの上に構築されている。したがって、「借り」の論理を称揚することは、資本主義を打ち倒すどころか、逆説的に資本主義に対してさらなる存在論的な正当性を与えるという結果に行き着くのではないか。 「借りたものは必ず返さなければならない」という脅迫観念は人間存在の存在そのものに根ざす根本的な「何か」であるように私には思われる。
  • あんどん書房
    あんどん書房
    @andn
    2026年3月30日
  • ・・
    ・・
    @parole05
    2026年3月27日
  • 互酬性・交換を前提にしない、共同活動生物として人間がもつ贈与性が、いつでも社会を基盤から、手に負えないと知りつつ手当し続けている。 ならばどうする?を考えていこう
  • 白玉庵
    白玉庵
    @shfttg
    2026年3月6日
  • ジクロロ
    ジクロロ
    @jirowcrew
    2026年3月4日
    江戸時代に、武士が罪を犯したとき、それが重罪だったときは打ち首だったが、そこまで至らないときは切腹だった。切腹の場合は、藩主や将軍からの贈死というかたちをとる。藩主や将軍が死を与えるのだ。それによって切腹は名誉ある死となるのである。権力のある者しか、贈与の権限はないのだ。このように贈与は権力や権威と結びついていて、封建遺制や古い慣習と親和的な面をもっている。 (p.13) このおののきが人間を捉えるのは、人間が人格〔=位格(ペルソナ)〕になるときである。そして人格がそのようなものになることができるのは、それがその単独性そのものにおいて、神の視線によって身をすくまされるときである。そのとき人格は他者の視線によって見られることになる。この場合に他者は、「至高の、絶対的で接近不可能な存在者であり、私たちを外的にではなく、内的に掌握する」のである。 (『死を与える』ジャック・デリダp.20) 「恥」と「おののき」は似ている。 前者は世間の目、後者は神の視線。 その抑圧の果てが、「死を与える」ーー贈与の形象としての死となるということ。 見つめられて臆病になるような行為は「盗み」に近しく、それにより与えられる死、つまり盗みの補填が「贈与」であるというよくできた話。
  • ふるえ
    ふるえ
    @furu_furu
    2026年2月15日
  • ひょんうく
    ひょんうく
    @nestra23
    2026年2月10日
  • さく
    さく
    @hisaku818
    2026年2月4日
  • ・・
    ・・
    @parole05
    2026年1月20日
  • ヒヨリ
    ヒヨリ
    @charonll
    1900年1月1日
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