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ふるえ
ふるえ
@furu_furu
本について日記に書いていたり、書いていなかったこと。
  • 2025年7月10日
    スロー・ルッキング
    スロー・ルッキング
    「スロー・リーディング」ってどういう読み方になるんだろうと思いながら読んでる。
  • 2025年7月6日
    スロー・ルッキング
    スロー・ルッキング
    博物館や美術館で「ゆっくり見る」ことについて書かれている章の中で、「見る」行為(作品鑑賞)に対して「知識」を与えることは、その人の探究活動にとって効果的なのかということが書かれていて興味深かった。探究のためには「知識」が必要になるけれど、不必要に与えられすぎるとそれでもう理解した気になったり、探究したいという欲求が削がれてしまうことにもなる。対話型鑑賞という言葉を最近聞くけれど、探究(観察)には適切な問い(よく見るための補助線のようなもの)と、適度な知識が必要なのかもしれないと思う。
  • 2025年7月6日
    フラジャイル・コンセプト
    図書館の返却期限になったので一旦読み終わる。「フラジャイル(もろい)」コンセプトというものが、その現場の「くうき」や「状況」によって変化していくもので、それに名前がきちんと与えられているのがなんだか頼もしくてよかった。建築というのも当たり前だけれど人が関わっていて、そこにはいろんな思いと計画と、プロの意識があるんだというのを感じる。
  • 2025年6月30日
    スロー・ルッキング
    スロー・ルッキング
    「ゆっくり見る」ことは難しい技術ではない(はず)なのに、そういえば今までゆっくり見ることができたと言える経験はあっただろうかと思う。何か作品を見たり、歴史的に重要なものだったり、散歩途中に見る風景だったり、そういうものをじっくり見たことってあんまりないのかもしれない。時間をかけて見ていたとしても、それはそのものと自分の関係性だったり、そのものの背景に思いを馳せながら思考している時間が大半で、本当の意味でそこにあるものを見ていなかったかもしれない。意味をそこに見出すのではなく、ただゆっくり見ることって難しいのかもしれない。
  • 2025年6月29日
    スロー・ルッキング
    スロー・ルッキング
    気になっていた本。「よく見る」というより(結果的にはよく見ることだとしても)「ゆっくり見る」というところにある普遍性を感じてたのしい。「見ること」の目的を視界の中におさめて、全体を眺めるというところではなく、さらに一段ゆっくりにする。スロー・ルッキングとは目的を「ゆっくり見る」ことにギアチェンジするような意識を獲得することなんだろうかと思いながら読んでいる。 “他人の靴を履くということは、自分がその靴について何らかの知識を持っているという感覚を伴います。しかし、その知識は常に不完全であり、単純化しすぎたり、時には危険なほど間違っていたりします。さらに、自分が知っていると思っているある事柄が正確であったとしても、それはいつも全体の一部にしかすぎません。つまり、私たちは他者の経験を完全に理解することなどけっしてできないのです。視点の取り方のパラドックスとは、一方では、他人の経験を知ることができると仮定することは、他人の経験の完全性を軽視することになります。とくに、その経験が自分の経験とはあまりにもかけ離れていて、それを想像するためにステレオタイプに頼ってしまう危険性がある場合はなおさらです。また一方では、他人の視点から経験を想像する能力を失えば、人間性というものはなくなってしまいます。誰かの視点に立つということの道徳的価値は、その限界を理解する能力に次いで重要なものなのかもしれません。” シャリ―・ティシュマン、訳:北垣憲仁、新藤浩伸『スロー・ルッキング』(東京大学出版会)p.87
  • 2025年6月27日
    さみしくてごめん
    職場へ向かう電車の中で読み終わる。永井さんの文章を読むと、それぞれのエッセイのタイトルはもちろんだけど、主題以外の言葉の節々からも問いをもらっているような感覚になる。でもそれは一方的に問われているというよりかは、何かを思考する文章に一緒に引っ張られていくような、ちょっとこれどう思うみたいなそんな感じで気づいたらそのことについて考えている。何かを簡単に結論づけてしまわない、一度そこで閉じたとしても、いつでも開いているような態度が面白くて、そういう人と何かを考えることがとてもたのしいなと思いながら読んでいた。
  • 2025年6月25日
    さみしくてごめん
    散歩について書かれた話を読みながら、同じようにそれを考える。仕事へ行く道を散歩の時に辿った時に違う風景のように見えるように、余白が多い、目的が特にない中で行為することは、未知を探す遊びを無意識にしてしまっているのかもしれない。見慣れた建物のてっぺんにある避雷針に気づいた時、フェンスの下の方にカラフルなヘアゴムが結びついているのを見た時、すっかり緑に染まった街路樹の土に青い花が咲いているのを視界の端にとらえた時。それぞれの瞬間が奥行きを持って、今までの認識を広げていくような感覚になる。普段通っているあの道のことを、仕事に行くための道としてだけではないと捉えられるようでたのしい。
  • 2025年6月23日
    中動態の世界
    中動態の世界
    長くかかった読書もついに終わった。意思とは何かという問いから、言語学的な話、哲学の歴史、そして文学というところまで長い道を歩いたような感覚になる。結局、中動態とはなんなのか?という具体的な像を描けてはいないけれど、それは自分にとって必要で、これから生きる上で大事な眼差しを得たような気がする。 本を読んだ結果、そこに普遍的な行為を見つけて「なんだ、そんなことか」と落ち着くのもいいけれど、その行為に至る視点とか、過程において、今までとは違う(あるいは深く)ように考えられることが、読書の一つの面白みだと思う。しばらくは「中動態」についてぼやぼやと考えを巡らせたい。
  • 2025年6月22日
    さみしくてごめん
    冒頭読んでいたら日記が続いていて驚く。日々の記録に大きなつながりはないように思えるけれど、それぞれの日に起こる出来事を読むのが楽しい。僕が同じ体験をしても、同じように書くことはできなくて、それがいろんな人の日記を読む面白さだと改めて思う。あっという間に読み終わってしまいそうなので、ちびちび読みたい。
  • 2025年6月22日
    フラジャイル・コンセプト
    好きなポッドキャストで紹介されていた本。 つくる中で感じたことや見えてきたものをそのままにして、設計した時の通りにつくっていくことの決められたことをやっている作業のようになってしまうことと、組織やクライアントから承認を得たプロセスをひっくり返してしまうことの恐ろしさというか引け目があることの難しさを感じながら読んでる。 「コンセプト、つまり「したいこと」がまずあって、それをカタチにするのが「つくる」ことだ、と捉えている。ところがこちらは、カタチにしていくなかで「ああ、自分はこんなことをしたかったんだ」と気づく、それが「つくる」ということだと感じる人間のようだった、というか、そういう時間の過ごし方、頭の働かせ方が楽しいから日々やっているわけで、その行ないの総体が「つくる」ということだと思っているらしい。先にコンセプトを決めて、そこからそれを直線的にモノに持ってくのは、単なる作業であって、「つくる」ではないのではないか、と感じてしまうのである。」 青木淳『フラジャイルコンセプト』(NTT出版)p.xi
  • 2025年6月21日
  • 2025年6月21日
    口の立つやつが勝つってことでいいのか
    何かを言葉にすることが、言葉にできないことに勝るとか劣るとかそういうことではないという話になんだか元気づけられる。読み進めていくのが楽しみ。
  • 2025年6月16日
    中動態の世界
    中動態の世界
    久しぶりに読み進めると、なんでこんな議論になっているんだっけ?となって結局前に戻りながら読んでいる。でも面白い。
  • 2025年6月14日
    大人をお休みする日
    優しくて、情景が浮かぶような文章と、そこにある誰かの生活と感情が自分の過去と重なる部分が見えてくる。
  • 2025年6月14日
    センスの哲学
    センスの哲学
    センスとは「リズム」であり、その反復と差異の中で生まれてくる偶然性(予測誤差)こそが、固有のセンスという個性を生み出していくのかもしれないと思った。 モデルの再現から降りること。憧れるもの、再現することに上手さという基準を委ねることをセンスとは呼ばないのではないかという投げかけは救われるような気持ちになる。 全体としての抽象度が高くなる「大意味」だけではなく、そこに行き着く過程の中にある「小意味」にも目を向けることで、物語に囚われることなくそれぞれの「リズム」を楽しむことができるようになるのかもしれない。 2周ぐらいしてなんとなく全体が掴めたような気がする。『勉強の哲学』も読みたくなった。
  • 2025年6月12日
    さみしくてごめん
    永井さんのエッセイたのしみ
  • 2025年6月10日
    アリの放浪記 多様な個が生み出す驚くべき社会
    アリの放浪記 多様な個が生み出す驚くべき社会
    文化人類学の本的な感じでアリのことを読んでいる。気がする。アリのことを追いかけて道に迷った研究者たちが、GPSで位置を知るために木に登ったみたいな話がさらっと書かれていて、想像すると面白い(本人たちからすれば生死を分けることだろうけれど)。アリの生態が、その生活を追うような形で書かれていて楽しく読める。
  • 2025年6月9日
    センスの哲学
    センスの哲学
    「脱意味化」という部分で、そのものの背景や意味ではなく、そこにあるものの「リズム」(形や色など)を楽しむという話があって、ついつい作品やものに対して背景を想像して楽しむ自分がいることを自覚する。
  • 2025年6月8日
    ヘルシンキ 生活の練習
    幸福や不幸といったことを比べがちだけれど、比べることで得られる位置に安心したり、憤ったり諦めたりすることは自分のしたかったことなのだろうか。何かと比べる前に、比べる先よりもまずは自分のことを見つめていくことのほうが自分を大切にすることなんじゃないだろうか、そんな問いをもらった気がする。タイトルにあるような「生活の練習」とは、作中では子どもたちが保育園や小学校で「自分で暮らすこと」や「人と関係を築くこと」などを学ぶことであり、それは大人になっても練習し続けていくスキルだという。社会の中で必要なのは知識でもあり、さまざまな体験でもあるけれど、日々の中でどう生きていくことが自分に適しているのか、そういうことを練習する時間があったほうがいいのかもしれない。
  • 2025年6月7日
    センスの哲学
    センスの哲学
    「センス」という抽象的で、どちらかというと誰かとの比較の中で使われるような言葉をほどきながらどういうものなんだろうと考えていくのが楽しい。内容もそうだけど、文章の書き方が優しいというか、読んでいる人がどう読むのか考えているのが見えてなんだかありがたい。
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