京都の平熱ーー哲学者の都市案内
26件の記録
鈍獣@whale_in_da_room2026年9月4日読み終わったお気に入り@ 八文字屋愛し抜き、ときに憎みもした京都で得た機微だ このセンテンスに出逢うためにこの本を読んでいたのだ “ 出来事は、それが痛いものであればあるほど、身に刻まれた記憶として、内でいやというほどこね回される。こね回されているうちに、それがまるでじぶんのすべてを規定してきた核のように感じられてくる。けれどもそれは、記憶が、よくできた「物語」として編みなおされるプロセスでもある。これにはちょっと用心しておいたほうがいい。 記憶は、油断しているとすぐに、よくできた「説明」にすり替わるからだ。「説明」にすり替わった記憶はもはや記憶ではない。そこにはわたしそのものよりも、ありそこねたわたしのほうが映しだされている。だから、よくできた記憶、辻褄のあった記憶のその脇に、まるで隠し眼だけをぬっと出してそれをのぞいているわたしがいる、と言ったほうがまだ近い。”
鈍獣@whale_in_da_room2026年9月3日読んでるこの感じもよくわかるし、その上でやはり京都という街を愛おしく感じる “「虚都」と言うのには、もう一つ、もっと大きい理由がある。「権威」だけで金を集められる、そのからくりというかシステムを、巧妙に開発してきたからだ。「総本山」しかり、「家元」しかり。免許やハクがここではものを言う。 京都の老舗で修行する、祇園で育ててもらったというのが、故郷に帰ったときどれだけものを言うのかも、みな知っている。要は、「権威」というフィクションをはさんでの共謀である。みな京に「上り」、全国に「下った」のだ。「くだらない」というのは、都のものとして地方に下りてゆくほどのこともないもののことである。”
鈍獣@whale_in_da_room2026年9月2日読んでる“ 都市は、文化のさまざまな装置が集積している場所である。あるいは、表現をすこし変えて、そうした装置がそこに生活するひとびとの身体ないしは感覚器官そのものと化している、そんな場所であると言ってもよい。わたしたちは歴史のなかで、みずからの野性とうまくつきあう方法を、ひとつの知恵として編みだしてきた。そのかぎりで都市という文化装置は、野性を締めだすのではなく、むしろそれを内蔵しているはずのものである。”
鈍獣@whale_in_da_room2026年8月30日読んでる@ テアトル梅田おもろ “叡電のその踏切を横切るまで、田中大久保町のあたりは、かつて学生下宿の密集していたところで、その学生たちによって「エーデンの東」と呼ばれていた。さらにそのむかしは、西田幾多郎、波多野精一をはじめとして、京都帝国大学の教授の住まいが数多くあった。ドイツ哲学が大嫌いという京大の梵文の教授が、「あそこには有機物が沈澱している」から住まないほうがいいと、京都に引っ越してきたばかりの九鬼周造に言ったといわれる。”
鈍獣@whale_in_da_room2026年8月29日読んでる枕草子だ “ たとえば、濡れた石畳。驟雨の後もいいが、打ち水した石畳はもっと心地よい。足もとに広がる墨絵の世界。その上を歩くと顎を生暖かい蒸気が撫でる。足裏に頑固な石の肌理を感じたとおもえば、次の瞬間、危うくつるりと足を滑らせそうになる。下駄のからから鳴る音に、ときどきひぃーっときしむ音が混じる。水を打った石畳、それは、見た目には静謐でも、そこを通りぬけると、身体のあちこちでいろいろな感覚がにぎやかにさざめきはじめるのだ。線香の香り、苔の感触、家の前に水を打つ音、格子越しに聞こえる包丁の音、簾越しに漏れくる三味線の音、舞妓を叱責する女将のきつい声、竿竹、豆腐、花の売り声。木戸をくぐるときの腰のしゃくれ。かつをだしの匂い。障子がつくる陰影。つるつるに磨いた柱の手触り……。”
鈍獣@whale_in_da_room2026年8月28日読み始めたやっぱり自分はどうしても大阪より此方に親近感を覚えてしまうな “ むかし京大に、祇園からタクシーで講義に出かける哲学の先生がいたり、雪の舞う大晦日に塀を越えて銀閣寺の庭にしのび込み、年越しの宴に酔いつぶれて凍死した学生や、大文字の送り火の前日に集団で山に登って茂みに隠れ、当日大文字の火がつけられると同時にいっせいに懐中電灯をつけて「犬」文字にして市民を怒らせた学生たちがいた。「筆おろし」のお世話になった学生もどっさりいた、はずだ。ロードショーの映画館は少ないけれど場末の映画館はたっぷりある。狭苦しい商店街もあれば、歌舞練場や南座など、華やかな市民の愉しみの場所もある。〈聖〉と〈性〉と〈学〉と〈遊〉が入れ子になって、都市の記憶をたっぷり溜めこんでいる路線なのである。”
鈍獣@whale_in_da_room2026年8月28日読んでるもちろん都市論になるよな “ 東京をはじめとする、現代を象徴する大都会——あるいは、都市を超えた都市と言うべきかもしれない——を見ると、そのような場所がすぐには見えない。いや、都市じたいが、かつてのように、ここは都市の頭脳が集積している区域、ここは食材と食いもの屋のあふれる界隈、ここは都市の「下半身」といったぐあいに、いわば人体のようにその全体を一つの象徴的なイメージでとらえることができなくなっている。都市のさまざまな機能が雑然と混在していて、どこをとっても同じような風景がべたーっと続く。世界が裏返ってしまうようなおどろおどろしい孔は消えてしまい、おだやかな(そして退屈な)日常の風景がだらだら連なっているだけのように見える。”
鈍獣@whale_in_da_room2026年8月28日読んでる他所から京都に移り住んでいた身として、そのとおりとしか言いようのない文章 “ 都市は施政者のものではない。所有するのは施政者かもしれないが、同じ場所でずっと生きつないでゆくのは、民である。施政者が民の家並みを押しのけて路を整備し、邸宅や伽藍を作り、民は別の隙間を見つけてでもそこに居続ける。仕事があるからだ。仕事にしがみつくためだ。一所懸命働いているうちに、つてもできてくる。都市に出稼ぎに来てそのまま住み着いた者のつてはもはや血縁ではない。郷からも都市の支配層からも押しのけられた者たちの相互扶助のネットワークである。それを護るために、ときに内に閉じてしまうこともあるネットワークである。ネットワークに入れるまでは「一見さんお断り」の風習である。けれども仲間の紹介があれば、一見さんでも深く受け容れる風習である。友だちが一人いれば細部まで入ってゆける街、それが京都だ。”
原沢香司 フクロコウジ旅と本と人@harasawa_koji2026年7月16日読み終わった@ フクロコウジ 旅と本と人京都で購入し京都で読みはじめ帰りの新幹線でも読み帰ってきてからも読んで旅が終わった。京都で育ち京都に生きるひとの書く京都。しかも哲学者。斜に構えることもなく、華美な修飾をするのでもなく、地に足がついた地元論。とても面白かった。曰く、京都を知りたければ京都の知人をつくれ、と。これは他の土地どこにでも当てはまる楽しみかたの要と思うが、京都では殊更に有効なのだろう。歩きたい、京都。












