Reads
Reads - 読書のSNS&記録アプリ
詳しく見る
たご
たご
@clan_1967
  • 2025年11月24日
    さがしもの
    さがしもの
    本を読むことは、娯楽と呼ばれうる数あるものごとのの中で、最も個人的で孤独な行為だと思う。その言葉の先にある光景は私にしか見えないし、そのときに抱く感情は私にしかわからない。 しかし本とは、そもそもは私ではない他人が書いたものである。そこに書かれている感情は、実は私のものではない。ほかの人の紡ぐ言葉に、ひそやかに耳を傾け、もしかしたら私が抱いたことのない感情を、叫びを、私のものとして発見する。 本を読むことは、最も個人的でありながら、最も他者を理解しようとする行為であるのかもしれない。
  • 2025年11月20日
    曾根崎心中 新装版
    曾根崎心中 新装版
    『国宝』を観たが、そういえば曾根崎についてはあらすじくらいしか知らなかったので。 橋の向こうに出られたのだから、どこか遠くで、2人でつましく暮らしていく道もあったろうが、美しいしいまま、死にたかったのだろう。最期に見たひとだまは、2人を導いてくれたのか、さらっていったのか。
  • 2025年11月16日
    私はあなたの記憶のなかに
    大好きな短編集。どうしようもない切なさと、やってやれないこともない現実のバランスがやっぱり角田さんはうまい。 結局のところ、私たちはひとりぼっちなのだ。たとえ恋人がいたって家族がいたって、明日もその人がいるとは限らない。そんな危ういもののうえに私たちは生きている。明日いなくなってしまうからといって、けれど今誰かとともにいることがまったく無駄かといえば、きっとそうではない。いつか、何年、何十年たったとき、ふっと思い出せる記憶があるということ。その中に、その人はあり続ける。今はそこにいなかったとしても。
  • 2025年11月9日
    ことり
    ことり
    人が忘れてしまったことりの言葉。わからないからといって意味がないわけではない。人生はその人だけのためのものであって、他人にわかる意味など、きっと、必要ない。私が美しいと思うものはきっと美しいのだし、大切だと思うものは間違いなく大切なのだ。けれどそれでも、誰かに共感を求めてしまう。
  • 2025年10月28日
    二十四の瞳
    総力戦が叫ばれ、国家のために死ぬことが名誉とされた時代。けれど、いったいだれが自らの夫を、子を、戦争で死なせて喜ぶだろう。 「名誉の戦死なんてしなさんな」 当たり前の願いさえ、そっとささやくことしかできなかった。本当は大きな声で叫びたかったのに。
  • 2025年10月20日
    ろまん燈籠
    戦争中に書かれた作品たち。 日に日に悪くなっていく時局に対し、太宰の語りはからりと明るい。 時代に迎合した文学が求められ、筆を折られる文学者も少なくなかった中、彼は書き続けた。 明るさ、の中でいうと、「散華」は少し異質かもしれない。大いなる戦争のために生命を落とした若者を讃えているようにも見えるけれど、未来ある詩人の若者を文学ではなく戦争のために殺されてしまったことへの憤りが感じられるような気もする。太宰の真意はどうであれ、あの時代に、そうとも受け取れるような作品を残した、そのことには変わりはないと思う。
  • 2025年10月6日
    夏の花
    夏の花
    原爆のきずと果てのない飢えに苦しみながら、それでも書き綴った。どうしてそこまでできたのだろう。
  • 2025年9月24日
    キャラメル工場から
    キャラメル工場から
    『虚偽』という作品が印象深い。 戦争へと吹き荒れる世論の中で、隠れ蓑を着たつもりで戦地に赴いた彼女。時局に迎合したつもりなど毛頭なかったのに、後の世からは、戦争協力だと罵られる。書いたのは純粋に、その地の兵隊たちに心が動かされたからであったのに。 けれども、世間に流されてはいなかったと、本当にいえるのか。虚偽を着て戦地に行ったと思っていたが、その心こそが虚偽ではなかったか。 静かに苦悶する文体が切ない。
  • 2025年9月15日
    幸福な遊戯
    幸福な遊戯
    角田さんのデビュー作。現実ではないどんちゃん騒ぎの遊戯の中に留まりたがる人と、いつか耐えきれなくなって抜け出したはずなのにそこにいる自分を夢想する人の話。未来はまだ遠く、可能性は無数にあるはずなのに、その魅力的な可能性のどれをも自分は選びうるはずがない。たとえ未来は未知のものであっても、今ここにいるのはよく知っている自分でしかないのだから。
  • 2025年9月9日
    三月の招待状
    三月の招待状
    かつての大学の同級生5人の、大学生のままの気分で生きていたら、(本人たちとしては至極真面目に)、気がつけば30代半ばのいい大人になっていて、気がついたからには今が変わるべきときなのか、でもどこを?どうやって?という話。 離婚パーティーとか失踪とかたぶらかされたとか、語られる日々はからっと滑稽で、それなのにときどき目の端に何か黒い影が過ぎるような、ふっとした怖さと切なさがある。 人は変われるなんて嘘っぱちで、いくら変わろうとあがいても、たどり着く先は結局は今の自分とほとんど変わらないのかもしれない。けれど、変わっても変わらなくても、とにかく人生は前には進むのだ。
  • 2025年8月28日
    野火/ハムレット日記
    人肉描写があるということだけは知っていたが、思っていたよりも語り手の心理描写が主でそこは意外だった。たとえ人は殺しても自分は食べてはいない、そのことだけが彼を生きながらえさせている唯一の救いだが、果たして本当に彼は食べなかったのか。 死はすぐ真横に、たしかに転がっているのに、一日、また一日と延期されていく。はじめは自然を眺め、生きるか自決するか、悩むだけあった余裕が、日が経つにつれ次第に失われ、狂気に堕ちていく様が恐ろしい。
  • 2025年8月21日
    太宰治
    太宰治
    井伏鱒二からみた太宰治とは。本人がどう思っていたのかはともかく、彼が周囲の人からどれほど愛されていたかがよくわかる。お調子者で、それなのに恥ずかしがり屋で、そしてなんだかおどおどしている。誰かに喜んでほしくて。それは結局は悲しいお道化なのかもしれないけれど、きっとそれだけではなかったろう。 お酒を飲んでいるときまって下駄を鳴らし、縁側から照れくさそうに「いやぁ」とやってくる。戻らない日々の回想は美しく、切ない。
  • 2025年8月11日
    明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子/斜陽日記
    太宰治の名作『斜陽』、その元となった『斜陽日記』と、娘が描いた父と母の記憶。人を愛したのかそれともその人の文学を愛したのか。けれど、どちらにしても同じことのような気もする。 太宰は男としても父親としてもどうしようもなく、そのどうしようもなさの被害を1番に被ったであろう著者は、父親を憎みながらも自分にお墨付きを与えてくれた彼を憎からず思う気持ちもあって、それが切ない。でも、たとえ全部がそうではなかったとしても、たしかにお互いに恋している瞬間もあったのだと、そう信じたいし、そうであろうと思う。だって、恋してなけりゃ、あんな手紙、書けっこないもの。
  • 2025年7月18日
    国宝 下 花道篇
    映画が「歌舞伎」を描いたものだとすれば、原作はもう少し広く「芸能」だろうか。役者も芸人も、およそ芸事というものは人に見てもらわないことには始まらない。とすると、自分の理想はどうであれ世間様と無関係ではいられない。世間は無情にも時代と共に変わりゆき、贔屓の役者にも変化を求める。喜久雄の最期の姿は、それでも彼が変わらずあろうとし続けたことへの、神さまからの祝福なのか、戒めなのか。
  • 2025年6月23日
    筑摩現代文学大系〈50〉石川達三集 (1976年)蒼氓 生きている兵隊 神坂四郎の犯罪 骨肉の倫理 三代の矜持 自由詩人
    『生きている兵隊』 発行後すぐに発禁処分となり、裁判にまでかけられた作品。 著者である石川に反戦の意図はあったのか、そうではなく、彼が証言するように、ただ銃後に胡座をかいている国民に喝を入れたかったのか、その真意はわからないが、いずれにせよ戦争の一つの実態と当時の軍部の対応を今に伝えるうえで重要な意味をもった作品だと思う。 基本、兵士たちは喜んで戦争に加わっているわけではない(一部例外はいるが)。できるなら人なんて殺したくないし、戦うのだって怖い。でも、だからといってどうすることもできない。戦場から逃げ出したところで、どうなることでもない。だから次第に彼らは諦め、慣れてゆく。それどころか、異常さを進んで受け入れようとする。世界とか時代とか、そういった大きなものの前では、人はあまりに無力だ。
  • 2025年6月19日
    桜桃
    桜桃
    桜桃忌なので。 桜桃という、キラキラした宝石のような果物と、それをさもまずそうに、種を吐き吐き食べる父親。その光景はどうにもアンバランスで滑稽で、そのアンバランスさと滑稽さがかなしい。
  • 2025年6月10日
    ドラママチ
    ドラママチ
    テーマは「待つ」。待つという気持ちが、喜びから苛立ちに変わるのはいつなんだろう。誕生日だって旅行だって、何かを待つという気持ちは何か素敵なことが起こるような、甘い興奮を私たちにもたらす。けれど、もしかしたら待っているものはいつまで経っても来ないかもしれないとわかったとき、そもそも待っているものなんて無かったのかもしれないと思ったとき、次第にそれは、じりじりした苛立ちへと変わり、そうして途方に暮れる。けれど最早、自分から動き出すこともできない。待つということと、何もしないこと、ただ怠惰であることに違いはあるのだろうか。角田さんは答えを見せてくれているような、そうでもないような。
  • 2025年5月30日
    人質の朗読会
    人質の朗読会
    拉致というセンセーショナルな出来事が前提にある中で、人質たちの語る物語は穏やかで静かである。その物語の中には、けれどひっそりと死の香りが漂っている。それは決して悪臭ではないが、ふとした瞬間にはっと気づく。この人はもうここにはいないのだと。そのことに愕然とする。そしてまた、彼らが語る物語の中にも、もうここにはいない人がいる。 たとえ今がどんな状況にあったとしても、過去は変わらない。出会った人とは出会わなかったことにはならない。時として残酷ではあるけれど、そのことを物語ることができるのは自分だけだ。何かを物語るということは、この声がどうか誰かに届きますようにという祈りでもある。 小川洋子さんの作品ははじめて読んだけれど、いいなあ。
  • 2025年5月27日
    ようこそ!FACT(東京S区第二支部)へ(4)
    魚豊先生にひれ伏すばかり。この世で最も不幸なことは、自分を信じられず、そうして信じたいという気持ちも沸き起こらないことなのかな。
  • 2025年5月16日
    八日目の蝉
    八日目の蝉
    中学生の頃に初めて読み、それ以来、角田さんの描く作品とその価値観を信用しきっている。男女の関係とか親子の確執とか、そんなことを考えたこともなかった自分がそれでも心を動かされたのは、きっとこの作品が、「私」という自己そのものを探す作品だったから。 望んだものは手に入らず、それなのに決して欲しくなんてなかったものだけは、どうしようもなくもってしまっている。無数の「こんなふうになりたいわけじゃなかった」を抱え、人は生きていく。けれど、たとえ望んだものではなかったとしても、ぎゅっと目をつむっていなくちゃならないほど、そこから見えるのはひどい景色ばかりではない。八日目の先にはどんな景色が広がっているのか、それはその人自身にしかわからない。
読み込み中...