

Jenの日常
@jennonichijo
「Jenの日常」というシェア型書店の棚主です。
滋賀県大津市の京阪電車「びわこ浜大津駅」近くの商店街のフレンドマートの向かい。性格はマイペース。旅と本と植物と台湾、シュールなことやクスッと笑えることが好き。のんびりしたり心が動く体験を共有できると嬉しいです。
- 2026年10月15日
光と糸ハン・ガン読み終わった10/15 読み進めるうち、庭の話で、「鏡を使って光を集める」ってのは、執筆に対するある意味メタファーのような気がしてきた。 重い歴史を過去のものとはせず、抱え続け、執筆を通して傷ついた人に心を寄せる。その「執筆すること」=「鏡を動かす」的な。 時代は常に動き続ける。自転を止めない地球のように。その地球の動きを読みながら、合わせながら、光をあてる。 なにもしなければ、陽当たりの悪い場所で植物を育てるのは難しい。そこに鏡という手を加え、どうにか命を育もうとする。 ブルーベリーなどの実のなる木は枯れてしまったし、ハダニを駆除しようとした事で、クモのような益虫までいなくなったりもした。そういう試行錯誤も筆者にとっての執筆に似ている感じがした。 どんどん死に向かって肉薄していき、時に危うさまで感じた前半に対し、後半の庭の話は生の要素が加わり世界が色鮮やかになっていくのを感じる。 読み終えた今、ハン・ガンという人は、生と死を行き来しながら、生々しい死が歴史に埋もれないよう寄り添い続ける人なのだろうな、と思った。 - 2026年10月14日
光と糸ハン・ガン庭の植物の話になった時、とてもホッとした。 著者の持つまるでガラスのような繊細な感覚、死に肉薄していく生活に、生々しくてでも地面にちゃんと根を張っている、「植物」という「生」の要素が加わった。 あぁ、なんという安心感! いつ、あちら側(死)にいってしまうのやら、と思いながら読んでいたのが一気に潮目が変わった。 そして私は、私の中の無意識のうちに死から遠ざかろうとする本能に気づく。 ページの向こう側に見える瑞々しい庭の気配を感じながら、しおり紐を挟み、本を閉じる。 続きはまた明日。 - 2026年10月14日
光と糸ハン・ガン読んでる私は著者についてよく知らない。彼女がどんな人なのかも。(実は最近本屋で見かけ、「少し前にノーベル賞を取っていたなー」と思い、ミーハー心で今、読んでいる) でも、彼女の文章を読んでいると、ついつい「才能」ついて考えてしまう。 才能を持つ人は幸せなのだろうか。社会的成功はしやすいのだろうけど、その大きな才能ゆえに、心は大きく揺さぶられる。心身を損なわないために、才能を乗りこなすために、大変な労力も同時に背負っていないだろうか? 人の心の機微に気づけてしまう。そしてそれを言葉という形でアウトプットできる。だからこそ、ノーベル文学賞を受賞出来たし、社会にも影響を与えられる。 でも、同時に繊細さを持つ者ならではの大変さもある。きっと。 白色テロを体験した人の心の機微に迫り、作品として仕上げる。だけど作品が完成したからといって、即スッパリ割り切れるものではないのだろう。その割り切れなさこそ、愛であり、金の糸なのだろうけども。 世の中には自身の才能を持て余して、生を手放す人もきっといるんだろうな…。そう思うくらい、息苦しい。 私は作家でもない、いち小市民なので、どんなに理不尽で苦しい時でもそれらを乗り越える為に、きっとかげでは何かしらのユーモアを人々は言い合っていたに違いない、それこそ人間の生命力ってもんだ、なんて不謹慎なことをついつい考えてしまう。 でももしかすると。その不謹慎さは韓国よりも地理的に南にあり、冬でも雪に閉ざされることがない国で生まれ育った人特有の大らかさ?大ざっぱさ?ゆえでもあり、翻れば寒い国で生まれ育った人にしか分からない、閉塞感?みたいなものもあるのかもしれないとも思う。 正直、これを読んでも著者の感覚に「あぁわかる分かる!」とはならない。 でもそういう孤独も含め、才能という乗り物をいかにして乗りこなすか。そんな才能を持つ人の日常を、垣間見れたような気持ちもするのだ。 - 2026年10月14日
光と糸ハン・ガン読んでる作家が本を書く時、作品に対してこんなにも誠実に向き合っているのか。 身を削ることも厭わないような誠実さ。それはまるで山に篭った修行僧のよう。 読んでいると、その誠実さに圧倒され、息が詰まって苦しくなる。自分が、酸欠になった池の鯉になって、パクパクしているような感覚に陥る。 それでもページをめくりたい。 - 2026年10月13日
光と糸ハン・ガン読んでるこの本は、図書館ではなくぜひ本屋で手に取ってほしい。 なぜなら、カバーの手触りがとても良いから。ずっと持っていたくなるような、独特の触感。吸い付くような触り心地。 私はこの作家の本を一度も読んだことがない。名前はいろんな場面で聞くけれど、どんな作家かもよく知らない。 冒頭、著者が子供の頃に書いた詩から始まる。 そして、その後作家として書いた作品についてその背景が語られる。その中で、過去の作品『ギリシャ語の時間』において、言葉を失った女性と視力を失いつつ男性の物語で「手触り」について書いたという一文があった。それをみて、「そういうことか!」と鳥肌がたった。 もっと続きを読みたい。 でも一文字ずつゆっくり大事に読みたい気もする。 この本を読み終えた時、私はどう感じるのだろう?そう思うと、めちゃくちゃワクワクする。 - 2026年9月21日
急に具合が悪くなる宮野真生子,磯野真穂読み終わったさて、先日読書会の前日でもまだ読み終えてなかった『急に具合が悪くなる』。 結論からいうと、間に合った。でも一つの手紙を一日かけて読むくらい、じっくり味わって読むべき作品だな、と思った。(完全に「お前が言うなよ」案件である) 読書会の感想は、これもまたとても面白かったので別に書くとして、以下は私の個人の感想。 全体を通して思うのは、伏線回収と言ってしまうとあまりに軽率になるけれど、とにかくまるっと一冊全体で「ひとかたまり」「伏線回収」という感覚がすごい。そして、ここまで死に飲み込まれようとする人に肉薄するドキュメントは見たことがない。 2人とも語彙力がすごすぎて、一般人ならありえないくらい正面から死に迫っていく。それゆえ我々読者としても、三人称の死がどんどんと近づいてきて一人称となっていくその変化の過程を、かぶりつきで見ているような感覚がある。読み終えたときも、「すごいものを見てしまったな……」というのが正直な感想。迫り来る死をフィールドワークとして体験している感じ。 宮野さんの誠実さと覚悟が伝わってくるし、皆見て見ぬふりをしている「死」を対象にした観察に寄り添いきる磯野さんの精神的体力にも圧倒される。 普通の人なら逃げ出したくなるような、ヒリヒリする状況に向き合い続ける、学者としての覚悟。宮野さんが、今にも自分を飲み込もうと大口を開けて迫り来るガンに対し、自分=ガンではなく、ガンをあくまでもたくさんある自身のタグの一つに過ぎない状態に置き続けてやろうと戦い続ける感じは、まるで研究という名の格闘技の選手とセコンドを見ているみたいだった。 運命や確率など、合理的な世界から、選び、決めることの連続の中で運命や説明できない割り切れなさを内包する余白のある非合理的な世界へと徐々に移動していくグラデーション。でもそれは、身体をどんどん侵食していくガンの勢力図ともリンクしているわけで、その切実さが胸に迫る。 ただ、そこには悲壮感はない。感傷的な要素は本当に少なくて、それがこの本の特徴であり、まさに研究者という感じがするところ。 人は、誰かの人生や何かの軌跡など、未来から過去を遡ろうとするとき、そこに物語を見いだしがちだけれど、当事者やごく身近でリアルタイムを共有する人にとっては、決断の連続の単なる年表に過ぎないのかもしれない。 ふとそう思ったとき、結果から過程を眺めては、物語として勝手に意味づけし、分かった気になって無意識のうちに消費しようとしている自分の傲慢さに気づく。 でもそれは弱さでもあり、同時に「いつかは必ずくる死という未来」をあえて直視しないことで、日々の生活を気楽に面白おかしく回す、ある種の生活の知恵なのかもしれないとも思うのだ。 当たり前かもしれないけれど、我々は死ぬ直前まで生きているし、生活している。死に飲み込まれようしているその最期の瞬間までその人らしく生活を続けるための技法が、ユマニチュード(映画版の中で描かれた、人間らしさを尊重するケアの技法)なんだな、と映画版の『急に具合が悪くなる』を先に見たからこそ尚更思う。 研究分野も違う宮野さんと磯野さんが運命的に出会い、手間を惜しまず言葉を何度も厳密に交わし、宮野さんと磯野さんという2つの点が次第に線となる。その線に沿って刻まれた踏み跡から撒かれた種が点として新たに芽吹いていく。 その芽吹きを具現化したものがこの本なのか!と気づいた時には本当に鳥肌が立った。 それでも私は、ついつい勝手に物語として意味付けしてしまう。そこにはただ死があるだけで、物語なんてないはずなのに。 それなのにこの2人の往復書簡には、まさにいま死に瀕している人の言葉を「生き生き」と言って良いのかどうか分からないけれど、この作品の持つ、なんとも言えない爽やかさがある。それが、編集の力だけで成しえたものとは思えない。 それはきっと、感傷を極力混ぜず、研究者としてあり続けたからこそ生じた、合理的には説明しきれない奇跡の一つなのだろう。 - 2026年9月20日
急に具合が悪くなる宮野真生子,磯野真穂読んでる・→「かも知れない」という確率、可能性。安心を求め、リスクを避けることで日常からどんどん遠かったり、選択肢が一気に狭められていくp21 p30 p31 ・未来だけから今を照らすようなやり方は、そのつどに変化する可能性を見落とし、未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまう。p31 ・運命、確率。 運命は死。(=誰もが必ず行き着くもの。) 確率は起こるかどうか不明なものp37 ・正しい情報は客観的で一般化可能性があるとされるエビデンスp39 ・客観的データは医療者の思う未来予想図とその地図の中での理想的な振る舞い方が埋め込まれているp39 ・確率によって描かれる未来予想図の難しさは、どこまで行っても運命論にしかなり得ないp40 →あらかじめ敷かれたレールを、自分で選んだていで選ばされる窮屈感。 ・「ガンが治ったら」=最新の治療ができなければやりたいことはできないp44→窮屈感に対する反発。怒り。 ・(一方で)いっそ粗雑な運命論に乗っかったほうが楽なんじゃないかp45→受け止めるに至っていない中での自由が狭められていくことに対する反発とそれに巻かれてしまおうかという揺れ ・→正しい情報は一般化された三人称的なもので、どうなるか分からない自分に誰がフィットするのか分からない。選び、決めることへの疲れp48 ・p55→誰かの人生や何かの軌跡など過去を遡ろうとするとき、そこに人は物語を見いだしがちだけれど、リアルタイムでは決断の連続に過ぎず、それはただの年表にすぎないのかもしれない。 ・p56→人生の終わりについて、合理的、科学的に語ろうとすると、行間からこぼれ落ちてしまうものが確実にある。 ・p56 →「かもしれない」から逃れ続けることは、心が追いつかないという点では、タイパコスパの追求と根っこは同じかも。 ・p60 →確率や合理性などに基づいての判断だとしても、人間の判断は結局、誰が言うかという「信頼」「希望」という非合理的なものに左右されているのかも ・p62 →医師の訴訟リスクを避けるという意図に基づき提示した選択肢。医師から見える景色、患者から見る景色が必ずしも重なるとはかぎらない。(確かにそうかも。自分の知り合いの話として、医学部の人がやりたいことと訴訟リスクを避けることとを天秤にかけて診療科を選ぶ話を聞いたことがある。訴訟リスクをはそれだけ医師にとって身近なものだと知り驚いたことがある) ・「良い患者」p70→選び決めることへの疲れ。確率、論理重視の方へ傾いている ・選ぶのは「私」結果を引き受けるのも「私」でも、そのプロセスは1人で担う必要はないp74→選ぶ・決めることへの姿勢が決まった ・p81 →1人で背負い込もうとしている宮野さんの力の入った目を、ユーモアを交えながら緩めて視界を広げる磯野さん。宮野さんのホームグラウンドでもある九鬼さんの「偶然」と「運命」の話をもっと詳しくと促している所もすごくいい。 ・合理性を手放すことのスリルp89 ・人は合理性に則って生きようとする。しかし、どうしても無理なことがある。その時は「飛んでみろ」p90 ・必然性をもとに合理的に世界を理解し、未来を予想しようとするp91 ・どうしても説明がつかないものを「原始偶然」というp93 ・私たちが生きる現実というのは結局のところ、必然なんて言えないんじゃないかp93→共感!人生は、現実は不条理なのものだと私も思う。 ・偶然は現実の生産点p93 ・ あり得ないことが起こる象徴が野球。偶然の持つ美しさp94・p95 →この表紙イラストがキャッチボールであること。このキャッチボールが会話のメタファーなことに途中で気づいて震えた。(茶トラは宮野さんの飼っている猫)⭐︎ ・「偶然」に対するポジティブな印象。一方で、自分が偶然に身を委ねることで周りを巻き込むことへの恐れp97 ・EP(エバンズプリチャード)の妖術。しかるべき努力や準備をしてもなぜか起こってしまった不運の説明のために使われるp103 ・p104→不幸と不運の混同がこの辺から ・p114→「腑に落ちる」の受動的なニュアンスの持つ心地よさ。偶然要素。 ・患者として役割が固定される時に不幸という物語が始まるp116→何でもない日常の持つ価値⭐︎ ・p118 →ガンは自分に紐づくタグの一つにすぎず、自分=ガンじゃない⭐︎ ・p120→物事には必ず理由があるとすることによる窮屈さ、不自由さ。翻っての「分からないもの」を分からないまま持っておくことの価値 ・p124→このあたりの言葉選びの厳密さ。しびれる!頭の良さってこういうことだよな!って感じ。 ・p125→即興性=偶然=(映画版の)ダンス!!!そうか!そういうことか!鳥肌たった。 ・p126→村上春樹が話題に上ってびっくり。私がこの本を読む中での逃避として村上春樹の本を読んでいたので。 ・p135→余分、余白の話 ・p134・p136 →書き言葉:余白なし、会話:余白あり。「病気のことは会話でも書き言葉にどんどん近づく」だからこの本はしゃべり言葉なのか!⭐︎ ・余分なものは余計なものじゃなくて、会話の広がる余地を作るp138 ・p138 整理されていない会話→それって余白のある言葉。つまり生活。病気になっても、それでも生活は続く。それこそ最期まで。⭐︎ ・p140→宮野さんは優等生の患者から「ほどほどの患者」に変化した。ただそれはつまり死を受け入れて始めたと同義でもある。(この頃はモルヒネ接種生活への慣れと書いてある。p141)⭐︎ ・ガン患者の日常にとって大切なのは、このずるずるであり、ぬるっとした変化p141 →生活・余白・ぬるっとした変化⭐︎ ・→この本の凄さが後半に向けてどんどん詰まって濃厚になってくる。「死」核心にグイグイギュンギュン迫っていく。双方の言語化の力が凄すぎて、一般人ならぼやかしてしまったり、ここまでの厳密さで核心に迫れるほどの力がない。でもこの2人は違う。すごいものを見てしまった…って感覚。読んでいて、苦しくなるほど。p147 ・自分の人生に完璧な責任が取れることは好ましいことなのかp158→割きれなさの美しさの境地 ・→論理的なもの、割り切れるもの、優等生の患者側にいた宮野さんが、「急に具合が悪くなる」ことの現実味が迫るにつれ、割り切れないもの、予測不能、不明瞭、を内包する側に変わっていくその様を一緒に体験していく感覚p158 ・信頼は日常的な私たちの社会を支える根本。見知らぬ人同士でもお互い役割に則って振る舞うという暗黙のルール。(by 哲学者の和辻)p161 ・ルールによって、怖い他者から自分を守り、他者に対して自分は怖くない存在だと提示するp162 ・他者との共同性を生きる上での「暗黙のルール」死が遠い時は、暗黙のルールも意識することなく適応できるが、死が迫ってくるとそのルールの中での運用が難しくなってくる。そういう、人間関係とそれを形作るルールの存在に改めて気付かされるp154 p161 ・p162 →死は「分からない未来」と最たるもの ・p163→死は「見て見ぬふりをしているもの」の最たるもの ・約束の意味。分からなさ(=未来)を内包した上での冒険であり、賭けを目の前の相手に対して「あなたがいるからこそ」と、今、表明することp163 ・p168 →今にも死に追いつかれそうになっている2人の誠実さを具現化したかのようなやり取り。こんな間近で覗き見していて良いのだろうかという気持ち。 p168 →「美しい研究」の「美しい」。これは偶然や余白に多分繋がっている。 p170→こんなんもう、泣くやん。叫びやん。映画版の濱口監督。まだまだと言ってたあの感じはこれか。なるほどね。もう、あの装丁を見る目が完全に変わった。切実さのゲージがマックス。可愛いなんて言ってられない。⭐︎ ・書くネタにしてやる。試作する人の業。p170→宮野さんの関西人の血も感じる。何でもネタにしてやるって感じ。そう思うと、特定の個人としての宮野さんその人が確かにいるという体温を感じる。 ・p173→九鬼の「あることもないこともあり得たにもかかわらず」の「にもかかわらず」が偶然性の象徴。そして宮野さんにとって美しいもの。それをおぞましいまでの力で否定しようとしてきた。それこそ、生きるということ。今までの闘病生活の振り返り。終わりの匂いがするのを、否定したい気持ちで読む苦しさ ・p175→再建した感覚のない胸→「偶然」「割きれなさ」「説明のつかないもの」を内包した自分の象徴でもありそう。⭐︎ ・p176→風船のように膨らんでいく死に食べれれて一体化していくイメージ。クジラに飲み込まれるピノキオのような。 ・p183→歩みを進めるたびに世界を知覚。ガンに包まれかけている中、ガンと自分との境目の感覚を忘れまいと、手触りを必死で確認しているかのような景色。 ・p185・p186→マニュアル的だったり、縦ではなく横並びの視点。一人一人方法の異なる関わり。映画で言うところのユマニチュード。鳥肌がたつ。物理的にガンに飲み込まれたとしても、役割としてまではガンに飲み込まれまいとする、踏ん張り。⭐︎ ・p190 終着点を決めない。ラインを描く。→点ではなく時間の経過という連続性のある線。そしてこの本はまさにその線を具現化したものということに気づく。⭐︎ ・p191→急に具合が悪くなってもなお、点ではなく線として変化し続ける宮野さんのあり方に、説明がつかないものの美しさって、こういうものか!と思わせられる。線を引き続けること、他人を巻き込んで点にしないこと ・p194、p195→例えば「正義」というような括りで乱暴に語るのではなく、厳密に言葉で本質に迫ろうとする丁寧さ。この状態でまだ変化し続けていることに圧倒される。正規、非正規、男性女性、それらはあくまでもたくさんあるタグの一つにすぎない。カオスの持つおおらかさ。余白。映画の終盤の舞台に乱入するあのカオス。あぁ、そういうことか。 ・私は患者であることを100%引き受けきれていないし、引き受けることが大切だとも思わない。p196 →タグ付けされたそのタグを書くのではなく語り、人と人とが繋がっていく。映画のあの画面ってのはそういうことか。ガン患者でも、正規でも非正規でも、それを自分のアイデンティティ丸ごとにしないその厳密であろうとするその誠実さに胸を打たれる。 ・色んな人が生きているという単純な事実が、多様性というかけ声のもとに整理される時、平面図の中に新しい点を置くような形で示されるp197→研究分野も違う宮野さんと磯野さんが出会い、手間を惜しまず言葉を何度も厳密に交わし、新たな点が生まれた。その点が線となり、時間を積み重ねながらラインを描いた結果生まれたのがこの本なのか! p223→点が線となり、その線に沿って刻まれた踏み跡から撒かれた種が芽吹いていくような、生き生きとした景色。まさにいま死に瀕している人の言葉を生き生きと言って良いのかどうか分からないけど、生き生きとしか言いようがない爽やかさ。 全体を通して思うのは、伏線回収と言ってしまうとあまりに軽率になる。だけど、とにかくまるっと一冊全体で「ひとかたまり」という感覚がすごい。すごいものを読んでしまった感。 キーワードは「日常生活」 - 2026年9月19日
急に具合が悪くなる宮野真生子,磯野真穂読んでる明日の読書会の本を読んでいる。『急に具合が悪くなる』。 ここ数年、親の入退院が続いている身としては、この不穏なタイトルにはなかなか手が伸びづらい。病院の待ち時間が長いので、検査の間に読む為にも何か本を持っていこうかと思っても、「待て待て、この本ほど病院に不釣り合いな本はないだろう」と思い、結局家に置いてきてしまう。そして、テスト前に掃除したくなるのと同じで、おもむろに村上春樹の長編を読み始めたりするのだ。 その点、村上春樹は良い。大体の主人公が長生きする気満々の健康的な生活を送っており、特に身体の健康面における安心と信頼の実績がハンパない。 大体の主人公はパスタやサンドイッチなど、冷蔵庫の有り合わせとはいえきちんと自炊をし、ジョギングやジムに行くなどの運動の習慣もある。多分、なんだかんだ言いつつ健康診断にも行ったりするんだろうし、なんなら先進医療対応のがん保険にも入っているかもしれない。冷蔵庫の野菜も、オーガニックのを配達してもらっている可能性すらある。少なくとも、具合も急に悪くなることはあるまい。 さて、不穏な題名のこの本の話である。 以下はこの本を読んで感じたこと、印象に残ったこと。 ・終末というものは、不確実性の最たるもので、その先の見えなさこそ、不安の源となりうる。 ・迷惑をかける要素を人生から排除することはできない。 ・非合理性という魅力 ・「私たちが生きる現実というのは、結局のところ必然なんて言えないんじゃないか」 ・昨今の地震や大雨などの自然災害の多さを見ても、「大仏を作ろう」「菅原道真の祟りじゃ」と思わないのは、何かしらの科学や偶然に対する捉え方が、昔と今では明らかに変わっているはず。それは一体なんなのか…? ・自己暗示、人生脚本とスピリチュアル(白魔術・黒魔術・言霊)、そして代替医療。 まだまだ読んでいる途中。今の時点で言葉のキレがすごい。異次元。読みやすいのにめちゃくちゃ中身が濃厚。 さて、明日の3時までに読んで頭の中を片付けられるのか?! - 2026年9月13日
「ユマニチュード」という革命イヴ・ジネスト,ロゼット・マレスコッティ,本田美和子読み終わった@ 図書館この本は、なにをもって、『人間』とするかについて書かれている。そして何より、how toだけに留まらない、全体的にフランスらしさの香る、力強さと哲学を根底に感じる本だった。印象に残ったのは以下の4点。 【1.自己犠牲とケアは切り離せる】 ・ケアに自己犠牲が必要だという前提は、ケアが修道院由来であるからにすぎず、この文化が個人に自己犠牲を迫り、そのことで個人が自由に考え行動する力を奪っている 【2.ケアにおける感情の取り扱い方】 ・仕事と感情は切り離せない。 ・感情とは身体そのものと密接に結びついたもの ・必要なのは親密さを用いたケアを仕事として行なっていることへの自覚 【3.技法とコツ】 ・関係ができて視界に入れてもらえる。まずはラポール ・優先事項は人によって異なる。 基礎的なニーズが自由であることは共通。 ・自律を可能にする依存(依存なしに絆は結べない) ・誰に依存するか(いかにしてポジティブな絆を作るか) ・現実とは何か?(制約しかないなら現実そのものを疑え) ・私が治す=力関係(ヒエラルキー・管理・所有・操作・一方的) ・「何を志向しているか」を伝えられる、周囲の人が理解できる=自律 ・行動と考え・気持ちの一致。そのための哲学と技術 ・ケアがどの段階のケアなのか常に俯瞰する (回復・維持・寄り添い) ・見る(目線を同じに。正面から) ・話す(ゆっくり穏やかに。反応なければ実況中継) ・触れる(点ではなく面で。肩や背中) ・立つ(体液や血流を動かす・人としての尊厳の自覚) 【4.自由について】 ・Noが言える自由。自由がなければYesしか言えない - 2026年5月15日
星の王子さま (中公文庫 サ 7-1)サンテグジュペリ,小島俊明読み終わった名著として有名なのに、個人的にはなかなか読み通すことができなかったこの本。 物語としては、2、3時間あれば読める程度のボリュームにもかかわらず、様々な翻訳者がいて、それぞれ少しずつニュアンスが異なる。そして何より物語がとても抽象的で幾通りもの解釈ができる。それだけで既にもうワクワクする。 でも実は初めてこの本を手に取った10代の頃、最初の何行かを読んで「エエ話書いとくから、ちゃんとキャッチしてや!」的な空気を感じ、「しゃらくせえ!」と思って挫折した。 でも大人になった今、様々な星の住人の描写があるある過ぎてスラスラ読めた。 そして特に後半の展開の畳み掛けてくるような濃厚さなど、全体的な物語の濃淡の偏りや、愛や死が絡んでくるあたりに日本人作家にはないバランス感覚やフランスっぽさ感じ、作者の人生にも興味がわいてくる。 なぜ王様でなく王子さまなのか、王子さまの序盤と終盤の成熟度の違いなど、物語は「大人であること」について色々問いかけてくる。 良くも悪くも色んな人に出会い、色んな経験をし、そのおかげで、色んな視点に出会う。大人と子どもを日々刻々と行き来する時間を重ねる中で、いつの間にか読めなかった物語を読めるようになる。これもまた、年を重ねたことによる一つの変化なのかもしれない。 初見、私は自身の内面の内なる子どもとの対話を通してそれらと統合していく「こころの話」として解釈した。 これってきっと、私の初見のタイミングが大人になってからだったからかもしれない。なぜなら、本物の子どもが「内なる子ども」なんて意識するはずだから。そう思うと、個々の捉え方の違いの差が興味深く思えてくる。 「星の王子さま」は本当に色んな読み方を秘めている。SFとしても面白いし、訳者の異なるバージョンを読み比べても面白そう。他にもキツネ、バラ、ヘビ、井戸、活火山、休火山、箱など、物語に出てくる様々なモチーフをメタファーとして捉えて、ユング的に読み解くのも絶対楽しいと思う。 こんなに多面的なら何回でも読めるし、そりゃ名著と呼ばれるはずだと納得がいく。今改めて、この物語の豊かさに圧倒されている。
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