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@ryoya0707
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  • 2025年8月17日
    ここは安心安全な場所
    あ、自分が作品つくるの「寂しい」からかもしれない
  • 2025年7月31日
    ほんとうは、どうしたい?
    ほんとうは、どうしたい?
    162 すごかった。驚いた。佐々木ののかさんの文章をもっと読んでみたいと思った。 似たような感覚がある。今までの恋愛、そのほとんどは「重い」って言われて、お別れを切り出されてきた。その度に自分の重さを呪ったけど、でも別の人と付き合っても、愛の重さのその軽い重いを自分でコントロールすることはできなかった。大事にしたいと思えば、考えるより先に体が動くし、自分の抱えている仕事よりも、相手のことを第一に優先したいと思った。 友人関係や恋愛関係でそんなふうにしていると、「見返りが無い」と感じることがあった。したくてしているのは自分で、別に何かを返して欲しくてやっているわけじゃ無いけど、せめて自分のことは大切にして欲しいと思うことがあった。自然な時の流れとして、自分が想いを向けた友人が離れて行くときにとても寂しくて、けれど「相手のためを思うならば、それがいい。寂しいとは思っていけない」と考えてきた。 佐々木さんと同じ感覚だとは思わない。でも、自分も子供が欲しいと思うことが、何度もある。それは自分ができる限りの愛を注いでも、そこに「注ぎすぎ」ということがないのではないかと思っているからかもしれない。愛を注ぐことができる相手が欲しいのだと思う。愛を向ける時に、自分の力が一番発揮される感覚がある。勇敢にもなれるし、苦痛だって乗り越えられる。そう思うことは危険だろうか、? 母親は自分の存在に愛を向けてくれた。でも、父親からはずっと能力や才能を見つめられている気がする。そうでなくても愛してくれているとも思うけど、お金を出してくれたり、気にかけてくれたりするのは自分に稼げるようになるため、強くなるため,成功できるようになってもらうためだと思う。その期待を裏切るのは怖い。平均でいることには罪悪感を感じる。それは条件付きで与えられてきた愛のせいだろうか。 無条件に、無限に人を大切にしたい。それだけで結構自分は幸せになれる。
  • 2025年7月31日
    ほんとうは、どうしたい?
    ほんとうは、どうしたい?
    64 自分が自分に課してきた「普通」は「人より優れていること」だと思った。常に人よりも優れていなければならない、それを証明しなければならない。そんな圧力が自分にかかっていて、それができなそうかもという可能性が頭をよぎるとすごく不安になる。お金を沢山稼げていることは、少なくとも大抵の人よりも自分は優れているんだということを意味すると思っているのかもしれない。さすがにそれは悲しいのではないか。どうだろう。 でも安全基地のように「少なくとも大抵の人よりも優れている」という実感をベースに、人に優しくあれるのならそれでもいいのかな。いや「少なくとも大抵の人よりは恵まれている」という感覚はあるんだ。とても。 自分を掘るたびに自分があまり美しく無い人間なことが浮き彫りなって落ち込みそうになる、、、自分のありのままを書くことは誰かを不快にされるのではとも思う。でも、ありのままってどこまでを指すの?もしかしたら与えられた規範や固定観念、作られた価値観という何重もの皮をかぶってしまっていて、「ありのまま」という真ん中に辿り着けていないだけでは?でも、全部を剥いたら、玉ねぎみたいに何も残らなかったら?まだ、わからない。。。
  • 2025年7月31日
    ほんとうは、どうしたい?
    ほんとうは、どうしたい?
    自分について掘り下げて考えるときに「病んでるの?」とか言われるのがうざい!別に病んでないし、心配をかけようとも思ってない。ただ自分の感覚を表現しているだけなのに。それに「ネガティブ」なラベルを貼られるのが嫌だ。でも「ポジティブ」な自分でいるべきだ、という感覚も持ってしまっている。いつも笑顔で、あっけらかんと明るく優しい人。人の前ではそうありたいよ。でもそれもなんでだ?いや、だってその方が一緒にいる時間楽しいって思うから。一緒に楽しみたい。 別に明るくしてたら「壁を作ってる」とか、弱音を吐いたら「信頼してる」とか、そんな簡単な話じゃない。相手のことが大事だから明るくしてるときもあるし、弱音を吐くのは信頼してるからじゃなくて単に甘えてしまっているときもあるし。てか甘えたい時もそりゃあっていいし。 安心して自分の輪郭をなぞれる場所を見つけるのもこんなに一苦労なのだなと思う。自分は音楽に対して規範が絡まりまくって有刺鉄線だらけになってしまい、それができなくなってしまった(側面もある、一部) 。 日記ではそれができる。でも日記だとサボるし、どうせ自分しか読まないからと言葉にするのを怠るところもある。ので、ここはちょうどいい。
  • 2025年7月31日
    ほんとうは、どうしたい?
    ほんとうは、どうしたい?
    44 自分の感覚に丁寧に形を与えたい。誰かの持っているものから、今まで見てきたものの中から選ばなくていい。固有の、じぶんの、ぜんぶを、なぞってみる。丁寧に。 自分が自分を理解できたら、それで十分大切にできる。擬態はしたくない。
  • 2025年7月31日
    ほんとうは、どうしたい?
    ほんとうは、どうしたい?
    29 《好きになることは、自分の世界をつくり、そこにデビューすることなのだ》 誰かの世界、既存の世界を見つめて、そこにデビューするたびに体と心が引き裂かれてきた、、自分の「ぜんぶ」を満たせる世界をつくりたい。 それは一つの仕事でという意味ではないだろうな。世界の認識の話でもあるかな。
  • 2025年7月31日
    ほんとうは、どうしたい?
    ほんとうは、どうしたい?
    紫波町でタイトルに惹かれて購入。眠らせてた本を今かもと思って読み始めた。 最近、寂しく心細いと感じることが多い。それは主に自分の生き方や仕事の選択に関すること。この道が本当に合っているのかな(①正解なのかな ②自分に合ってるのかな) に確証が持てず、その中で日々をそそまま前に進ませていくのが怖い。 中学数学で一次関数をやるけど、y=axのaの傾きが少しでも違うと、×(経過時間のような感覚)が大きくなったときに、全然違う場所へ辿り着いてしまう。それだけ打ち上げ角度は大切だから、出発する前の方針が大事だと思い込んでいる。 ↑でもさ、人生は一次関数ではなく折れ線グラフだったり、指数関数みたいだったり、もはや平面のグラフで表せるほど少ない変数のゲームでもない。多分自分がイメージしてるのは「適切な職に就き、順調に収入や社会的信頼、そして社会や他者への影響力を積み上げ、増加させていくゲーム」ことだ。 実際、このゲームが覇権的な世界だと思う。だからうまくプレイできないと自分は劣っていると感じてしまう。自分は自分なりに方法でこのゲームを攻略したいのか、それとも別のゲームをプレイしたいのか。それともゲームが別に好きじゃ無いのか、分かりたい。 - 仕事をする中で感じている自分にとっての「寂しさ」はこの3つかも ①共に頑張る仲間がいなくて寂しい ②必要としてくれる人がいなくて寂しい ③気にかけ、育ててくれる人がいなくて寂しい そして、就職したらそれが全て解決するんじゃないか?と思ってる。ちなみに大学時代は上記寂しさは全て感じないで済む環境だった。めちゃ調子良かった。 フリーランスだし、寂しさ心細さは当たり前だと思う。未熟なままなんとかやってるから、そりゃ不安にもなる。なんで自分は就職してないんだ? ・大学時代から多少稼げてしまったので、そのままいけるのではと思った ・週5で通い続けるみたいなの想像しただけで結構キツい ・既存の仕事の関係、結構すき。必要としてくれるクライアントと仕事ができなくなるのは寂しい。 → もしくは断るのが申し訳ないと思っている。 ・嫌な人とは関わりたく無い、本当に。自分が関わる人は自分で選びたい (甘いだろうか) ・自分の頑張りに応じてお金が沢山欲しい。それで周りの人を助けたり、世界中見に行ったりしたい。 ・やりたくない仕事、したくない( → だが自分のやりたい仕事とは?まだ全然多様な仕事を経験してなく無いか?) こんな感じの理由である。 寂しさの①②③は、就職してなくても乗り越えられる。もう本当は持っている。ただ自分を選んだ道を信じ切れてない、力を出し切れてない感覚。 いままで自分が力を発揮できた場面は ・締め切りのある無茶振りが発生して、ガムシャラに走り切る。要素分解して攻略した。 ・チームでやる必要があること。自分は人を生かしながら、全体をマネジメントするのが好きだし得意だと思う。 苦手だったこと ・自分1人で長期取り組む → 浪人生活、音楽制作、卒業制作 人とやる仕組みを作れなかったこと「自分1人で解決しなきゃいけない」「評価されるのが怖い」と思っていて全部失敗してる。 いまやってる仕事もこれに近い。だから、上手くいってなくて、上手くいってないから道を疑い始めてる。上手く行ってるときは道を疑ったりしないもんね。 上手く行くことが選ぶべき道なのかな、それとも短期的には上手くいかなくても「すべきこと、ありたい姿」(これって憧れってことか?) を目指すのが良いのかな。 自分が幸せなのは前者だと思うな。その方が力を発揮できる。その先の未来で、きっとすべきことやありたい姿が見えてくるんじゃないかな。だっていま自分の中にある「すべきこと、ありたい姿」って憧れをきっかけにした色んな他者の姿だもん。それはそれで大事にしていいけど、具体的なレベルで彼らと同じでいようとすると違う人間だから無理がでる。実際きつい。 憧れからもらったものは感覚レベルで自分の中にちゃんと落ちてるよ。だから、具体で憧れを目指するじゃなくて、とにかく上手く行く方を選び続けよう。それが良いと思った。
  • 2025年7月18日
    棕櫚を燃やす
    棕櫚を燃やす
  • 2025年7月18日
    しゃにむに写真家
    写真家 吉田亮人さんが、小学校教師から写真家に転身して生きていく過程を綴った自伝的ノンフィクション。なりたい自分になれないと落ち込んでいる人がいたら、全員にまずはこの本を手にとって欲しい。最高だから。 この本を読みながら何度も声を出して笑った。何度も泣きそうになりながらページをめくった。まだまだ諦めなくていい、なんど挫折したって、今がどんなに未熟だって、情熱と勇気があれば少しずつでも進みたい方へ進めること。6年勤めた小学校の教師を辞めて、全くの初心者から写真家になった吉田さんの姿が大事なことを教えてくれる。 何度だって初心者をやればいい。いつからだって情熱に身を任せて始めていい! 今日は制作がうまくいかなくて、情けなくて落ち込んでいたのだけど、この本を開いて元気がでた。
  • 2025年7月18日
    小名浜ピープルズ
    妙蓮寺の本屋 生活綴方で開催された小松理研さんと安達茉莉子さんのトークイベントに行ってきた。小松さんは地元福島を拠点に活躍する書き手であり、働き手の方である。彼の活動はどこか遠目に眺めていた。10年くらい前から知っているけど、お会いする機会が今までなかった。今回の綴方のイベントでお会いできて良かった。いまの自分が出会いたいと思う方だった。トークでは文体の話、場所について語ること、ケアとデザインについて、など書くことを中心に安達さんと話してくれた。彼らの考え方が好きだ。それは今までの自分に足りなかったもの、、、足りなかったというか、出会えてこなかったものだからだと思う。彼らはきっと「足りなさ」という言葉を使わない。  「ピープルズ」という連関の中で、小松さんが変化しながら書き留めた言葉に触れていきたい。読み終えたとき、また自分も少し変われているといいな。それが楽しみ。
  • 2025年7月18日
    ここは安心安全な場所
    最後の寄稿文が、本全体を貫くような、包み込むような文章だった。これがあるのと無いのでは全然違う。 この本は「名前」についての話だったと総括する。名前のつけられた人は(ここでは馬の話を例に出す)、その役割の中で生きることを強いられ、また役割によって他者から理解される。しかし、役割(名前)を取り払ったとりにむき出しの生がそこにある。それを見つめましょうという提案だと思う。 文中では「名付けること、評価することは人間の癖だ。業と言ってもいいかもしれない」とある。そして、宮沢賢治はそれを含めて「修羅」と言ったのではないかと。 無名であることは頼りない。けれど、無名であるとき、初めて人は自分の「全て」で生きれるのかもしれない。
  • 2025年7月17日
    ここは安心安全な場所
    141 「自分のために生きる」「自分自身で生きる」は、おれもずっと悩んでいることだと思う。彼女のため、親のため、クライアントのため、友人のため、それはもちろんその先にある自分のためだけど、何か他者を介在しない「自分のため」の生き方ができているのかにはまだ自信がない。とはいえ、自分に甘いところも多分にあるから、本を読もうとか、美味しいものを食べようとか、自分の欲求に素直なところはもちろんある。でもそれとはちょっと違う方向の「自分のために生きる」という選択をもっとしたいと思う。 4月、初めての一人旅でインドに行った。これは自分のための時間だった。間違い無いと思う。誰の期待も受けず、ただ2週間自分ために生きた。寂しくて、つまらない時間もあったけど、でも何か満たされていくような感覚もあった。それは自分のために見たい景色を見たり、一つ一つの選択をしたり、自分を大切にしたり、自分を信じて人との出会いと向き合ったり。勇気を出せたことに感動したり、その逆があったりしたからじゃないかな。旅人というのは出会いと別れをたくさん経験する。変化も経験する。なんだから、毎日生まれて、毎日死を目にしているような感覚になる。でも、それがこの世界の本当なんだなとも思う。生と死を思うことが、日々から失われているんだと。バラナシで止まったゲストハウスの屋上から見たガンジス川が本当に綺麗だった。時間の流れが、日本にいる時とは違った。 インドでカメラを持ち歩いて、出会う人や景色の写真を撮った。遠慮してばかりだった。火葬場を撮りたくて、でも撮っていいのか、なにかトラブルになるんじゃ無いか怖くて、ファインダーを覗かずに隠し撮りをした。そしたら一緒にいた、ゲストハウスで出会った友人が「撮りたいならちゃんと撮ったらいい。隠し撮りするんじゃなくて」と少し苛立ちながら伝えてくれた。 そこから、少しずつ目の前の現実と向き合えるようになった。堂々と生きていきたいと思った。撮りたいことは自分自身の気持ちなのだから。少なくとも、自分は否定しなくていいんだ。
  • 2025年7月17日
    ここは安心安全な場所
    134 「自分が存在していることを、味方してくれるような場所に出会えた」
  • 2025年7月17日
    ここは安心安全な場所
    133 植本さんは写真を撮るときに遠慮がないのか!めっちゃいいな
  • 2025年7月17日
    ここは安心安全な場所
    094 西村佳哲さんのワークショップに参加したくなった。10年前くらい、高校生の時に「自分の仕事をつくる」を知り合いのNPOのおじさんがおすすめして、貸してくれた。面白そうな本だと思ったけど、読み始めるほどの興味が多分湧かなくて、読まないままに、高校を卒業するときに返してしまった。 どんな場所でも「判断」されてしまうこと。むしろ判断されたいと思っている。この人は優秀だ、面白い、仕事を頼みたい。でも同時に自分が相手を素晴らしい人だと感じたとき、見透かされてしまう気がして、判断されるのが怖くなる。そして距離を置いてしまう。そういうことがよくある。 自分が誰かの役に立つこと、誰かにとって大切な存在であること。そこでは自分が常に自分の価値を測っている。そして、往々にしてその価値は低く見積もっている気がする。 人が好きだけど、なかなか自分が好きになれない。人の前にいるときに、一時的に演じている自分自身は前向きで、明るくて、いいなと思うけど。それは本当に一面でしかなくて、実はもっと面白いんだよって、わかってほしいと思ってる。でも、誰になら分かってもらえるのか、自分以前に他者のことも信じられていないのかもしれない。 最寄駅前の居酒屋に1人で入ったとき、隣に座っていた夫婦と仲良くなった。旦那さんがおれの話を聞いて「君は本当に優しい」と言ってくれたとき、すごく嬉しかった。ただそれだけのことを、ずっと求めていたような気がする。 自分は父親に、優しいねって褒められたことはない。大体「甘い」と言われてきたし、褒められるとしたら「お父さんの子だから」と言われてきた。自分の努力や優しさを誉めてもらった記憶は、残念ながら一度もない。父親とは仲がいいし、信頼している。感謝することの方がはるかに多いけれど、もう少し違う関わり方もしてみたかったな、とは思う。
  • 2025年7月17日
    ここは安心安全な場所
    本当は自分がものを作らなくても、作ることができるものを探している気がする。
  • 2025年7月17日
    ここは安心安全な場所
    091 自分を語ること・知ることってなんなのか。職業ややっていることで自分を表現することの足りなさを感じる。例えば「カメラマンです」と言って、自分が大切にしていることや、感じていることが何か伝わるだろうか。自分は色々自己紹介したときに「クリエイティブだね〜」「マルチタレントだね〜」と言われて、何にも伝わらないなって感じている。ものを作ることの前にあることや、別にものを作らなくてもいいんだって思いたいこととか。そういうものが普段の自己紹介では伝えられない。自己紹介は壁を作るためのものにさえ、なってしまうかもしれない。
  • 2025年7月17日
    むしろ、考える家事【電子特典付き】
    家事をする時間は非効率だから、減らすべし。と思ってしまうので。料理は好き。毎回新しいことに挑戦できるし、やり終えた時には「美味しい」が待っているから。まだ読み始めだけど、力強くて勢いのある想像力がある文体が良い。
  • 2025年7月17日
    ここは安心安全な場所
    岩手県 紫波町のブックフェアで植本さんから直接買うことができた。寺尾紗穂さんの写真を撮っているからなんとなく名前は知ってた植本さん。お会いして、もっとこの人について知りたいと思った。植本さんは千歳烏山のcommon houseと言う本屋さんで写真展をやっている。今週末の読書会に向けて、読み進める。
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