墳墓記

21件の記録
- ジジ📖@gg_books2025年5月1日読み終わった借りてきた死に瀕した男の夢想がわたしの思考の海に溶けてゆく。どっぷりと古典作品を読み進めた時、溜息のつく暇すらない幽玄な能楽を観た時、琴線に触れる音楽を身体で感じたとき、わたしも白昼夢のような夢想をする時があるから。コンサート会場にいるはずなのに、北欧の濃い緑の森を彷徨っていたり、入水した古の人と共に冷たい水をもがいていたり。誰そ彼どき、本の中から現れたあなたがこちらの目を覗き込んでいたり。 光る君や定家、鎌倉武士や幽玄の住人の語りと共に何処かへ漂ってゆくようだった。
- kt@keitobit2025年4月19日読み終わった「言葉に出来ないものに目を凝らす」「連綿と続く伝統から現在地を捉え直す」という、かつて『太陽を曳く馬』で切り込んだ題材を、今度は日本古典文学という枠組みでアプローチしているようにもみえた。
- ni@nininice2025年4月13日読み終わった外は春雨。静かな午後。 『新潮』での連載を読んでいた時から、こんな夢のような作品を新作として読むことができるなんて、なんて素晴らしいことなんだ、感謝感謝と思っていた。それが一冊の美しい本となり、わたしの手元にある。 御簾越しに泰然とした後白河院の立ち姿があり、院は扇子をかざしながら、ゆらりゆらり声の舟を漕ぎだしてゆく。水面にゆるやかな抑揚の水紋が生まれ、ときおり光を反射しながら前後左右に波打つように広がって、ゆったりとスイングするそれは、声そのものよりある種の歓びの微熱、あるいは暖かな日差しの膨らみを男の耳に運んでくる。ああ、自分がもっと素直な人間だったなら、それこそささら浪立つように仏を感じ取るのかもしれない。 古典を愛するものにとって、これほど夢のような一瞬はない。今はもう絶対に聞くことのできないその声で、その歌や言葉を聞いてみたい。歓びの微熱。暖かな日差しの膨らみ。わたしもそのようなものを感じたくて、何年も飽きずに和歌を眺めているのかもしれない。 そうだ、和歌を眺めるにも、歌の中に言葉として顕れる色や、空気、音などに、もっともっと耳を傾け、見つめ、じっくりと味わう必要があると気付かされる。実朝の黒、雨の降る空の昏さ、靄、霞、海、風。 『墳墓記』を手元に置きつつ、また『太陽を曳く馬』を読む。高村作品の中でも特別に愛しているから、というわたしの主観的な理由だけでなく、この二作品はどこか繋がっているような気がする。じゆうらっか。
- Autoishk@nunc_stans2025年3月30日読み終わった古典教養が足らず十分に読めたとは程遠いのだが、とかく自由な筆致が縦横無尽に走っていて感慨深かった。しかし著者も老境に入り合田雄一郎とはあと何回出会えるのだろう。
- Autoishk@nunc_stans2025年3月30日読んでる「在原業平を筆頭に歌詠みたちもみな助平だが、彼らは脳内の妄想を三十一文字にするだけで、必ずしも生身の女とかかわる必要がない。ひるがえって物語の登場人物たちは、まさに物語のために我が身を挺して女たちに言い寄り、籠絡し、恨んだり妬んだりと年甲斐もない醜態をさらさなければならない。そうして四季の庭を折々に眺めてはため息を漏らし、歌詠みたちはため息とおもに眺められるそれらの風景のなかに、濾過されて純度を増した憂愁や寂寥や孤絶の美を発見して身悶えするのだ。」(p.110)
- ni@nininice2025年3月26日買った満開の木蓮の下で一ページ目を開く。大切に大切に読みます。 三月二十八日 朝日新聞の記事より。 「際限がないんです。こんな世界が書きたいという欲望が。これからも基本は音の世界。音が聞こえてくるような世界をつくりたいですね」 次の音の世界も楽しみ。ようやくざわついていた心が静かになってきたので、『墳墓記』読み始めたい。 装画は「水面の春」という作品の部分らしい。水面の春と聞いて思い浮かぶ和歌。 花の色のをられぬ水にさす棹の雫もにほふ宇治の河長 定家 花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎゆく舟の跡みゆるまで 宮内卿 ふもとゆく舟路は花になりはてゝなみに浪そふ山おろしの風 良経